平成16年度春季大会発表要旨

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1.団水の仏学
  ―『好色破邪顕正』『諸宗鉄槌論』の創作方法をめぐって ―

東京大学(院)

水谷隆之

北条団水作か否か未だ明確な結論を見ないものに『好色破邪顕正』(貞享四年刊)がある。作者「白眼居士」は団水の別号と一致するが、西鶴門人で、かつ『色道大皷』(同年刊)他の好色物浮世草子を上梓してもいる団水が、好色物批判を主題とするような作品を執筆したとは考え難いこと等がその主な理由である。

しかしながら、『好色破邪顕正』と同一作者による『諸宗鉄槌論』(貞享四年刊)は団水作である可能性が濃厚である。僧端什跋文にも高く評価される『鉄槌論』を当時弱冠二五歳の団水作と認めることへの疑問につき、本発表では、同書が『元亨釈書』・『天台名目類聚鈔』他の仏教書や種々の先行説話等、各種典拠の切継ぎにより創作されたものであることを指摘し、それら典拠の利用法が『本朝智恵鑑』他の団水作と共通する点を確認する。

以上の作業をもとに『諸宗鉄槌論』及び『好色破邪顕正』を団水作と改めて認めたうえで、『破邪顕正』の執筆意図についても言及したい。団水の意図は好色本そのものへの批判にあるのではなく、当代流行の好色物を批判するという枠組みの中で自身の儒仏の論を展開することにあった。衒学的な話題を好む一方、読者の興味を惹く一定の枠組みを設定した上で数々の文献を引用・編集することにより作品を創出しようとする、いわば編集者としての団水の特徴は、両作にも良く表れている。


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2.『十能都鳥狂詩』をめぐる諸問題

青山学院大学(院)

藤川雅恵

『十能都鳥狂詩』(元禄一三年正月刊)は、初代・中村七三郎の芸風を伝える資料として周知のものであり、鳥越文蔵氏による翻刻と要を得た解説もある(『元禄歌舞伎攷』)。「花草子」(『役者万年暦』)と呼ばれた本書の演劇資料としての価値は高く、曾我十郎を得意とした七三郎が、五郎も演じたことや、『三かつ心中』であかねや半七を演じたことなど、京都での新たな動向を見出すことができる。注目すべきは、菱屋治兵衛のごく初期の出版物である本書の「跋」に「若松梅之助」(青木鷺水)の署名があることだ。つまり、鷺水浮世草子の主な板元となる菱屋と鷺水の最初の接点が、ここに確認できるのである。

「青木鷺水丹前艶男といふ草紙を作り、此男(七三郎)をほめ侍る」(『元禄大平記』)とあるが、「丹前艶男」というのは本書の俗称ではないだろうか。本発表では、従来別書とされた両者が同一のものであることや、鷺水の関与が本文にも及ぶことなどを、用字・用語・内部徴証など様々な角度から検証する。それによって、鷺水浮世草子の評価を見直し、彼が演劇などの情報も取り込む作者であり、その原点が本書にあることを明らかにしていく。さらに、「狂詩」という形態、同じ「若松梅之助」の署名を有する『吉日鎧曾我』との関係、三勝心中を『新色五巻書』に取り入れた西沢一風との関わり、都の錦が伝える演劇情報の信憑性などについても言及する。


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3. 浮世草子と見世物

同志社大学

神谷勝広

近年、見世物に対する関心が高まっている。見世物は、多様な内容を含み、優れた集客力を持っていた。したがって、近世文芸へ大きな影響を与えていたことが予想できる。

ところが、従来、近世文芸と見世物との関係についての考察は、さほど多くない。特に、浮世草子では少ない。浮世草子は、見世物とあまり関わらないのか。当然ながら、そうではない。

今回は、まず次の三点を指摘する。
  (1) 浮世草子は見世物を取り込み、現実感を出そうとする。
  (2) 浮世草子は、見世物の流行を受け、登場人物を見世物と関わらせるなど、ストーリーに絡ませる。
  (3) 浮世草子は、現実の見世物を踏まえつつ、架空の見世物を創り出す。
この三点は、以後の近世小説(特に、山東京伝作品)にも、発展的に継承されている。

見世物を視座にして近世文芸の特徴を浮かび上がらせる考察が、今後、重要になってくるのではないだろうか。


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4. 蕪村・几董発句における「趣向」と「案じ場」

東京大学(院)

千野浩一

蕪村は「趣向」の語を、故事・古歌を踏まえるような工夫を含めた、一句の構想という程度の意味で用いている。一方、『俳諧問答』『葛の松原』等においては、たとえば「題(見入れ)・趣向・句作り」のような図式の中で、特に「句作り」に対する言葉として「趣向」の語が用いられることがある。この場合の「趣向」は「構想・素材」、「句作り」は「表現・叙述」と、両者はある程度明確に区別される。ところが、『白話伝難陳』等では、「趣向」「句作り」それぞれが句中の具体的事物を指して、「構想」と「表現」の区別が曖昧になる。几董著『附合てびき蔓』や同著『完成己酉句録』「句作の弁」もこれにやや近く、「趣向」「句作り」はともに句中の具体的表現を直接指している。几董の言う「趣向」とは、題に対して取合せられる事物、「句作り」はその働きや状態である。

このように几董は、発句の構造を、題に対してまず「趣向」を定め、次に「句作り」を考えるという二段階によって説明しているが、蕪村もまた、季題に対しある部分は固定しながら、その他の部分を様々に変奏させて複数の句を作ることが多い。蕪村書簡中に見える「案じ場」という用語が、その固定部分を示す語である可能性を指摘しつつ、蕪村句の固定部分・変奏部分と、几董の言う「趣向」「句作り」とを比較し、その共通点と相違点を明らかにする。


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5. 『通言総籬』をめぐる江戸座俳諧
  −石原徒流と吉原仲の町茶屋主人の俳諧活動−

北海道大学(院)

鹿島美里

『通言総籬』において吉原仲の町茶屋の主人達が、梅枝の俳号を持つ遊女菅原を点者として点取俳諧を行っていた話が出てくる。ここから吉原の遊女と、吉原仲の町茶屋の主人達には俳諧グループがあったことをうかがわせる。また早稲田大学図書館蔵(山口剛氏旧蔵)の『通言総籬』には当時の通人による書き入れがある事が知られており、神保五彌氏が「洒落本の書き入れ」として紹介している。

本発表では、『通言総籬』の本文と早大本の書き入れからヒントを得て、吉原での俳諧活動がどのように行なわれていたのかを考察する。『通言総籬』に茶屋の主人達に交じって俳諧に興じる、俳諧宗匠「とりう」が出てくるが、この「とりう」なる謎の人物は『俳諧觽』に登場する存義側分派の江戸座鶏口側に賊した石原徒流であると見当を付けた。また吉原仲の町茶屋主人のもとには大名の子弟も訪れ、一つの文化圏を形成していたのである。『通言総籬』に書かれた吉原仲の町茶屋の主人達を確定していくことによって、江戸座俳諧の存義側に連なる人物として結びつけることが出来ると考えられる。従来、山東京伝は数寄屋連に連なる人物として狂歌連という枠組みの中で捉えられ、江戸座俳諧に関係した人物としては言及されてこなかった。京伝を吉原仲の町茶屋の主人達と大名の子弟とともに、江戸座俳諧との関わりの中でとらえ直していき、江戸座俳諧の一端を『通言総籬』を中心として明らかにしていきたい。


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6. 不用意の論

東洋大学

谷地快一

〈「実景」「不用意」「高邁洒落」を三本柱〉(尾形仂『蕪村自筆句帳』)とされる蕪村調のうち、「不用意」は他の二者とは異なる概念である可能性を示して批判を仰ぐ。

調のうち、「不用意」は他の二者とは異なる概念である可能性を示して批判を仰ぐ。 蕪村の絵画・遺墨を集成した講談社版『蕪村全集』(第六巻)の刊行により、作品それぞれの落款が容易に読めるようになった。その「絵画」全五七七点の内の六十数点、「俳画」全一二四点の内の六点ほどには共通の一様式が確認される。すなわち、51「牧馬図」の「馬擬南蘋人用自家 淀南趙居」、105「風雪三顧図」の「法呉郡銭貢筆 謝長庚」、557「陶靖節図」の「倣張平山筆意 日東謝寅」の類で、「○○に擬す」「○○に法(のっと)る」「○○に倣ふ」というパターンがそれである。

これは実は蕪村の俳諧を好む読者にとって馴染みある様式で、例えば宝暦七年(一七五七)の「天橋図賛」、明和六年(一七六九)の『平安二十歌仙』序、明和九年(一七七二)の『其雪影』序、安永三年(一七七四)の『むかしを今』序や安永六年(一七七七)の『春泥句集』序、そして安永九年(一七八〇)の『もゝすもゝ』序などに類似の表現が見えている。

これら相互の構造を検証して、「不用意」が作風ではなく境地に与えられた名であること、さらに蕪村晩年の志向という作意への傾斜に際しても、軽視されていない点に言及する。


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7. 元禄の添削

金城学院大学

神作研一

美濃国加地田(かじた)の豪商平井家に伝存する、およそ一千点ほどの文芸資料の中に、その八代目当主平井冬音らが受けた和歌の添削資料が含まれている(岐阜県富加町郷土資料館現蔵)。

いずれも、原詠草を上方へと送り、京都の歌学者によって添削・返送されてきた一次資料であり、その形態は折紙一通の短いものから、巻子状に及ぶ長いものまで、区々認められる。その数、五十点余。年記は、正徳元年から享保末年まで。添削者は、香川宣阿・香川景新・水田長隣・有賀長伯・金勝慶安ほか、いずれも元禄期前後に上方で活躍した地下二条派歌人である。彼ら地下歌人によるこの種の通信添削については、これまでも少なからず言及されてきたが、このように、その一次資料がまとまって見出されたのは初めてのことで、彼らの具体的な添削のありようを窺うには恰好の資料だと思われる。就中注目すべきは、冬音らが、同時期に同題の詠草を、複数の師匠に送って添削を受けている例が残ることである(正徳五年〈宣阿・長隣・慶安〉、享保元年〈宣阿・長隣〉の二例)。

本発表では、先ず平井家文芸資料の全貌をあらあら紹介して、その歴代当主の詩歌俳に及ぶ多様な文芸活動の軌跡を確認するとともに、特に、右二例の複数添削の跡をつぶさに比較検討することによって、元禄期の上方地下二条派歌人の和歌観や詠歌作法について考えることとしたい。


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8. 『竹斎』東下りの年代について

筑波大学(院)

松本 健

仮名草子『竹斎』における主人公の東下りは、はじめ豊臣に仕えながら後に徳川のもとへ参じることになった当代の大医、曲直瀬玄朔の東下りを意識して書かれたものとされている。具体的なモデルとして広くイメージされているのは、慶長期に徳川の招聘を受けたことによる玄朔の初めての東下りというものなのであろうが、ここには疑問の余地がある。徳川の招聘とその拝受といったものは、玄朔の場合はやや複雑であった。『曲直瀬家譜』など玄朔の名誉を伝える史料においてすら、招聘の時期は明示されておらず、それが段階的なものであったことをうかがわせている。『本光国師日記』、『鹿苑日録』、『台徳院殿御実紀』などからは、京と江戸を頻繁に往復していた玄朔の動向を確認できるのだが、徳川との近接は元和四年以降にこそ現われている。『竹斎』の東下りは、実際には長く緊張関係にあった徳川を受け入れることになった玄朔の、元和期における伺候を描いたものだったと考えられるのである。

本発表では、『竹斎』に描かれていたのが玄朔の最後の東下りと呼べるものであったと判断できる理由を本文からも指摘し、その舞台が元和期であったことを明らかにする。これは慶長を謳う本文が、実際の人間関係をぼやかすためのカムフラージュであったことを示すことにもつながり、政治的な緊張感をもって書かれていた『竹斎』の性格を明らかにする一助ともなるものである。


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9. 『太閤記』と『絵本太閤記』との比較研究

高麗大学(非)

金 時徳

本考では、『太閤記」から『絵本太閤記』への変化の様相を検討することを試みた。特に、両作品の中で独特な性格を持っていながら、今まであまり注目されたことのなかった、壬辰倭亂(文禄・慶長の役)の関連記事に焦点を当ててみた。

『太閤記』卷十三から卷十六までの関連記事は、七年戦争の全体像を最初に提示した画期的なもので、その後、朝鮮軍記物を含む、江戸時代の関連作品に大きい影響を及ぼした。しかし、『太閤記』は、資料の不足に起因した「類似記事の反復」等の限界をも持っていた。それで、『絵本太閤記』では、第六・七編の関連記事において、『太閤記』で提示された戦争の全体像や個別記事を継承しながらも、堀正意の『朝鮮征伐記』、及び朝鮮の柳成龍の『懲リ録』等の作品からも多くの記事を利用し、『太閤記』を補完・拡張しようとする傾向が見られる。

一方、『太閤記』では、織田信長対豊臣秀吉、小西行長対加藤清正について、比較的公平な叙述がなされている。『太閤記」での、特に小西行長と加藤清正に対する均衡の取れた叙述は、近松の『本朝三国志』等でも認められるのであるが、『絵本太閤記』になると、豊臣秀吉と加藤清正を格上げするために織田信長と小西行長を格下げする変化が現われるようになった。

以上のように、『太閤記」から『絵本太閤記』への変化における好例として、壬辰倭亂の関連記事は注目に値するといえよう。


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10. 助六劇固定化の要因について
  −市川家と九代目市村羽左衛門−

立命館大学

齊藤千恵

歌舞伎「助六」は、純歌舞伎であるにも関わらず、演出の固定化が早い時期に進んだ演目であるといわれる。従来から、二代目市川団十郎が創始し三度の上演を経て完成させ、それが後世に伝わったとされる。しかし、「助六」が二代目団十郎以降どのように継承され、演出の固定化に至るのか、その固定化の要因については、いまだ明らかにされていない。

本発表では、『役者全書』所載の「栢莚助六相伝之図」にもその名がみえる九代目市村羽左衛門に注目し、九代目羽左衛門の演じた「助六」と、その前後の市川宗家の動向を考察することによって、「助六」の芸の継承の実態に迫りたい。

九代目羽左衛門は市村座座本であり、舞踊の名手として知られるが、その一方で宝暦四年に二代目市川団十郎から「矢の根」芸を譲られ、それ以降に「栢莚風」演技の模倣を行った最後の役者でもある。「助六」上演に際しても、九代目羽左衛門が「栢莚風」で演じた記録が認められる。また安永五年・天明二年の二度の興行においては、九代目羽左衛門が助六役を降板しているらしいことも、上演資料等から読み取ることができる。

二代目市川団十郎は多くの役者に芸譲りを行ったことで知られるが、二代目の死後その芸譲りが四代目・五代目団十郎にどのような影響を与えたのか、その意味についても言及したい。


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11. 『双生隅田川』の四段目の舞台演出について

同志社大学

山田和人

『双生隅田川』の四段目、天狗と松若、班女の再会の場面の舞台演出について考える。なぜ、松若は、天狗の腕に乗って現われるのか。この絵柄は、岩切友里子論文(『浮世絵芸術』一四七号)の指摘する僧正坊と牛若の画題との関連を想起させる。このことは、この場面の演出を考える上で大きなヒントを提供してくれる。なお、こうした演技がひとつの趣向として人形芝居のなかにも流通していたようであり、その実状についても考察する。からくり演出と絵画資料の関連について問題提起したい。

また、当該場面の絵尽しには「此所大からくり」とあり、付舞台における大からくり演出が想定される。中空から、松若を腕に乗せて出現する天狗がどのように演技し、それをいかに演出したのか。愛知県知立市と知多市に伝承されているからくり人形を参照しながらこの点について考えてみたい。

本作は、人買い惣太の悲劇や歌舞伎の隅田川物との関連、双面や法界坊との関連など、多彩な指摘がなされてきた。今回は、初演時の竹本座の舞台なればこそ上演できた本作の舞台演出について、四段目を中心に、絵画資料と現存からくりをヒントに考えてみたい。また、この場面の評価は、本作の浄瑠璃版『隅田川』としての評価の問題や、近松とからくりの問題について考えることにも通じる。


(C)日本近世文学会