平成16年度秋季大会発表要旨

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1. 『椿説弓張月』の方法

奈良女子大学(院)

久岡明穂

『椿説弓張月』は、『保元物語』では伊豆大島で最期を迎えた源為朝を、伊豆大島から脱出させた。それは、馬琴自身が、源義経・朝夷義秀の場合とは違うと述べていることからも、悲劇の人物を死なせたくないという感情のみにもとづいた、単なる、いわゆる〈生脱伝説〉ではなく、ある目的を持ってなされたはずである。

馬琴が、典拠として用いた『保元物語』は、水戸の修史事業のために編纂された『参考保元物語』であるが、馬琴も、単に、異本羅列の便利さだけからそれを用いたのではなくて、諸説を蒐集比較した上で『大日本史』という「歴史」を構築した、水戸藩の修史の方法に倣ったのであることを、『参考保元物語』から『大日本史』への流れと比較することで明らかにして『弓張月』における馬琴の方法と、その目的とを考察する。

馬琴はしかも、その方法に倣いながら、巧妙に手を加えることによって、為朝の生脱という『保元物語』とは離反する結果を導き出し、そうすることで、まったく新しい「歴史」として『弓張月』を展開した。翻って考えれば、そもそも伊豆大島の為朝も、『保元物語』成立の過程で、それまでの為朝の事跡に新しく加えられたものであった。馬琴は、さらに琉球の為朝を作り加えたのであって、そのようにして、いわば「虚構」を「歴史」化したと見れば、その目的は、両者に通ずるということもできるであろう。


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2. 書物と地本の間
  ― 文化期における中本型読本の消滅について

山口県立大

木越俊介

文化五年に出板点数のピークを迎えた中本型読本は、その後文化年間に下降の一途をたどる。この現象自体は既に横山邦治氏・燒リ元氏などによって指摘されてきたが、本発表ではその理由を明らかにすることで、後期戯作における中本型読本の位置を探っていきたい。

具体的には、『割印帳』に中本型読本が現れはじめるのが文化四年九月の名主改(なぬしあらため)の創始(佐藤悟氏)と同時期であること、そしてその名主改の創始に関わる資料である『外題作者画工書肆名目集』記載書名の一部に「地」という記号が付されていることを指摘する。それらを踏まえた上で、『名目集』と『割印帳』との記録を照合することにより、書物・地本問屋それぞれが手がけた中本型読本が、板行に至るまでにどのような改のルートを経たのかを分類していく。これはすなわち、中本型読本本来の特色が外在的要因によって解体、消失していく過程をたどることにもなるだろう。

また、右の時期と平行して、より本格的な半紙本読本も内容的には中本型読本に近づいていたこと、さらには合巻と読本との近似など、文化五年を境とする戯作の様相を広い視野で捉えたい。そうした中で、この時期における読本の大衆化の様相をより具体的なものにしていくことができればと考えている。


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3. 後期読本作者小枝繁の位置

島根大

田中則雄

小枝繁は、馬琴の主導による江戸読本の動向に追随した作者と評されてきた(横山邦治『読本の研究』)。ここから私もかつて、小枝繁には独創的な作法の開拓は見られないと述べたが(叢書江戸文庫『小枝繁集』解題、一九九七)、この評価には若干の訂正が必要であると考えるに至った。

確かに繁は「勧善懲悪」に言及し、人物を〈善・悪〉の別によって描こうとしている。しかしその善人も時に迷い過ちを犯し、悪人も自らその悪を省みて悔悟翻心するなどのことが書かれる。これは馬琴流を模しての不徹底と見るべきではなく、作者自身に人間をこのようなものとして捉えたいという意識があったためであると考える。

ところでこのような人間像は、仏教長編説話(長編勧化本)に頻出するものと重なる部分が大きい。繁は『松王物語』(文化九刊)において仏教長編説話(『兵庫築島伝』)に取材し、以降この方法を再三用いた。仏教長編説話からの取材自体は馬琴『石言遺響』(文化二刊)等に倣うものであるが、繁においては人間像のレベルでの連関が認められる。かつ直接仏教長編説話に取材しない作(『小栗外伝』等)にも同種の人間を登場させている。また一方で、仏神の配慮や人間の運命は必ずしも絶対的固定的でない旨の発言等も見られ(『古乃花双紙』等)、馬琴流の枠に収まり切らぬ観点から人間を捉えようとしていたことが見て取れる。


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4. 伊予の貸本屋について

愛媛大

福田安典

昭和十一年に岡達雄氏なる人物から、まとまった数の読本、人情本、滑稽本が愛媛県立図書館に寄贈された。この寄贈書は、幕末から近代に至るまで松山の繁華街湊町で営業していた貸本屋・汲汲堂の旧蔵書であると思われる。

伊予の貸本屋については長友千代治氏、白方勝氏によってわずかに報告はされているものの、その実態や規模については全く不明であった。しかし、この寄贈書によってほぼその輪郭を知ることができる。そのことは単なる伊予の一書肆の問題にとどまらず、広く読本などの江戸の本を扱う貸本書肆の実態を理解するうえでも貴重であろう。

今回の発表ではその旧蔵書の大半を占める読本(百五十六部、総冊数一〇七四冊)を対象にして、その実態を報告する。これらは、また河内屋群玉堂や前川原七郎などの大阪の書肆から購入されたものが目に付き、再版、後刷り、時には明治になってからの刊本、また明治になっても調製されていた和装本が多い。そして、その値段や貸し方の実際など調査を通じて判明したことを報告したい。

伊予の貸本屋について貴重な証言を残しているのは正岡子規である。すなわち、子規は松山時代にこの湊町に複数あった貸本屋で読本に読みふけっていたのであった。その意味では、伊予の貸本類は、近代の文人を涵養する読書の泉でもあったのである。そこで、今回の発表では、この汲汲堂旧蔵の貸本におびただしく書き込まれた落書にも注目し、近代の読者が江戸の読本をいかなる目で見ていたのかについても言及したい。


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5. 幕末の新聞が挟まれていた明治の草紙
  ― 草紙の製本過程に及ぶ ―

同朋大

服部 仁

『諸国合戦図会』(明治元年〈一八六八〉〔九月四日改元〕十一月改印)という草紙がある。『日本書誌学大系10 明治前期戯作本書目』(山口武美氏著、昭和五五年刊)によれば、十五巻十五冊ということだが、私が見ているのは、一、二、拾巻の三冊のみである。表紙の画師(外題)は、落款はないが、血みどろ絵を得意とする歌川芳年であろう。作者・画師は未詳。時は豊臣秀吉の頃としているが、本文挿画の兵士の格好が、ダンブクロに赤熊であるので、戊辰戦争のことを託しているのである。内容は、挿画に説明がついているだけのもの。この本、珍しく表紙と見返しが一続きの絵となっている。もちろん一連の紙である。

合巻の、表紙と見返しが一連の紙となるのがいつからかははっきりしないが、文化年中には一連の紙となっているようだ(後表紙と後表紙見返しが一連の紙となるのは天保頃)。かなりしっかり圧力をかけて折ってあるので、錦絵風摺付表紙と見返しが貼り付けてあるようにも見えるが、実は一枚の紙なのである。つまり普通は表紙と見返しが一続きの絵とはなっていないのである。

いわゆる明治合巻は、一冊九丁のものが多いのだが、この『諸国合戦図会』は一冊十丁である。本作の各丁の間に、慶応四年〈一八六八〉五月三十日刊の『遠近新聞』二十七号などの新聞が挟んであった。このことが意味するところについて、考えてみたい。


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6. 『男色大鑑』における女性と「我」

駒澤大(非)

畑中千晶

暉峻康隆『西鶴新論』の説に代表されるように、『男色大鑑』という作品は、男色讃美の姿勢が後半部に至って徐々に崩れ、身辺雑記的な記述となるために、創作態度や方法に一貫性がないとの評価がなされている。

だが、翻訳を通じて『男色大鑑』に接する海外の読者は、むしろ男色讃美の主旋律から逸脱する部分に興味を寄せ、そこに西鶴の独自性を見ている(P・シャロウの論考、フランス語訳序文など)。こうした読みは、作品の持つ〈多声的〉な側面に目を向けることを促しているとはいえないだろうか。

唯美的であり、劇的に展開する男色説話を多く取り込む一方で、西鶴は、それらを緩やかに覆う形で、「女嫌ひ」の男(特に、隠者的風貌の者)の話を描き込んでいる。女性忌避の態度が極端であればあるほど、そうした態度の持つ滑稽味は強まる。このように「女嫌ひ」を相対化する意識は、後半部において、「我」が「女嫌ひ」を標榜しつつも、その規範から逸脱する行動へと出ること(例えば巻六の五など)を準備しているように思われる。

男色讃美の主旋律とそこからの逸脱、この両面において本作品は読み解いていく必要がある。旋律の複数性は、首章において「我」の存在感が二重化していること(浅草の「我」と難波の筆者)とパラレルな構造であると考えられる。このため、本作における語り手の位相の分析も、合わせて提示したいと考えている。


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7. 『木やり大全』について

総合研究大学院大学(院)

中島次郎

『木やり大全』は国会図書館所蔵、名古屋の医家平出順益の旧蔵書である。

本発表では、従来、殆ど言及されることのなかったこの歌謡書を紹介するとともに、その位置を確認してみたい。

本書は原表紙原題簽を存し、本文9丁からなる。7丁末に「右此本者竹之丞しばゐ山川内記直之正本ヲ以」云々の奥書があり、9丁末には「江戸木挽町山村座/江戸さかい町正本屋●(四角枠の中に十)右衛門」の刊記がある。題簽には「たんぜん十兵衛正本/堺町ゑざうしや権左衛門」云々とある。すなわち〔A〕1〜7丁目〔B〕8・9丁目とは元来別個のものであり、これに〔C〕表紙を付して抱き合わせて板行したものと推測される。役者の考証により〔A〕は寛文年間(一六六一〜七三)後半、〔B〕は寛文十二年頃、〔C〕は延宝年間(一六七三〜八一)かと思われる。丹前十兵衛は差紙十兵衛ともいい、土佐少掾座の役者(人形遣い)であった。

〔A〕は内題に「木やりつくし」とあるように木やり16首の集成であり、詞章の面で『淋敷座之慰』に載る13首の木やりとの関連が認められる。

〔B〕は6丁の板木の末2丁で、木やり集ではなく、山村座の歌謡正本から木やり部分を抜き出したものである。板元正本屋十右衛門は古浄瑠璃正本や段物集・せりふ正本『六方詞』に狂言本『椀久浮世十界』を刊行した書肆である。

以上の諸点を中心に、歌謡書を中心とした歌舞伎の初期の出版物について、考察する。


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8. 歌舞伎と紀海音『三井寺開帳』

大阪女子大

河合眞澄

紀海音の浄瑠璃『三井寺開帳』(正徳二年初演)は、時代浄瑠璃でありながら三段の形式を取り、歌舞伎の影響が色濃いことは、つとに指摘されている。歌舞伎の三番続の形式を踏襲していること、御家騒動を内容とすることなど、構想・構成・趣向において、歌舞伎を浄瑠璃に移したような作品になっていることは、論を俟たない。

『三井寺開帳』における歌舞伎の利用は、歌舞伎の色合いが濃いという全体の印象にとどまるものではなく、もっと具体性を持つものである。初段の冒頭部は、歌舞伎『四国辺路』(元禄四年初演)の狂言本の文章に酷似していて、狂言本を直接参照し、筆を加えたものとしか考えられない。これを手掛りとすると、他にも具体的な歌舞伎狂言の利用がなされていたことが想像される。

『三井寺開帳』の中に取り込まれた狂言を具体的に推測し、この浄瑠璃への歌舞伎の影響を考察する。


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9. 『随葉集』の諸問題

和光大

深沢眞二

連歌寄合書『随葉集』の諸本・成立事情などを考える。

同書には寛永古活字版、整版本、写本が伝存している。古活字版には三種の異植字版(東京国立博物館本ほか一本、内閣文庫本ほか一本、龍谷大学本)が確認できる。整版本には中本と大本があり、ともに古活字版本文に拠っている。中本では寛永十四年の西村又左衛門版がもっとも早い。その刊記のみを改めた寛永十八年および正保五年の村上平楽寺版が続き、さらには無刊記版がある。大本は寛文元年の中野道也版であり、京都大学蔵本の一点のみが知られる。

版本諸本に先行する写本としては綿屋文庫本が慶長八年の書写奥書を持ち、毘沙門堂公厳の筆と伝えられている。公厳は中院通勝の弟で、山科毘沙門堂の僧、のち還俗して「三級」の号で慶長末から元和期の禁裏連歌会に出座した人物。また、下冊の内題下には「如睡集之」と記されている。この「如睡」は、『時慶卿記』の慶長七年以降、里村昌叱関連の記事に登場する「小寺如水」ではないだろうか。そうしたことを踏まえると、『随葉集』は里村家の周辺で成立し伝えられていたものと考えられる。

また、慶長八年写本と較べて版本諸本の本文は杜撰である。とくに二首の古歌の接合による誤伝歌が多数ある。しかしながら同書整版本は近世初期俳諧において広く流布した。同書所載の誤伝歌の、俳諧への影響も考慮されなければならないと思われる。


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10. 『智恵鑑』の出版と修訂

中京大

柳沢昌紀

辻原元甫作の仮名草子『智恵鑑』(万治三年跋刊、十巻十冊)は、明の馮夢竜の『智嚢』もしくはその増補版『増広智嚢補』等を典拠として、智恵の鑑とすべき説話を和解したものであることが知られる。本書は京都の小嶋弥左衛門から刊行されたが、架蔵の一本(巻一欠、九冊)には小嶋の名が、従来報告されている跋末ではなく、後表紙見返しに記されている。そこでこれまで初版とされ、近世文学未刊本叢書・仮名草子篇の底本ともなった天理大学附属天理図書館蔵本と本文を比べてみると、天理本は架蔵本と同版ながら、版木二枚の新刻ならびに八十箇所を超える入木によって修訂が施されたものであることがわかった。修訂の内容は数行に達する本文の追加や改変のほか、語の変更、助詞・仮名遣い・読仮名・読点の加除変更等多岐にわたっている。

本発表では、『智恵鑑』の出版と修訂の有様を具体的に眺めつつ、その改訂が作者辻原元甫の意向によるものであり、教訓的言辞や故事の追加、文章の推敲および訂正など、より良い本文の提供をめざすものであったことを述べる。また、同じく元甫作の仮名草子『女四書』(明暦二年刊)や元甫が跋文を書いている『徒然草』明暦四年版等を視野に入れて、元甫と版元小嶋弥左衛門との関係についても若干の考察をしてみたい。


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11. 仇気屋艶二郎の変容

椙山女学園大

佐藤至子

本発表では、仇気屋艶二郎という登場人物像の変容に注目し、黄表紙・合巻の質的差異を考察する。

山東京伝の黄表紙『江戸生艶気樺焼』(以下『樺焼』)の主人公仇気屋艶二郎は浮気心の止まない放蕩息子として描かれている。一方で墨川亭雪麿の合巻『逢見茶娵入小袖』(あいみるちやよめいりこそで)に登場する艶二郎は、醜男でもてない設定は『樺焼』と同様だが、主人公たちを邪魔する脇役である点で『樺焼』とは大きく異なる。

『樺焼』の追随作では、艶二郎を髣髴とさせる主人公たちは醜男で浮気な自惚れ屋として描かれる他、美男でもてる自惚れ屋や、色事に通じた人物としても描かれている。また『樺焼』の結末が浮気心の戒めだったのに対し、追随作の結末は自惚れの戒めになっている。自惚れ屋としての艶二郎は早くも洒落本『通言総籬』に登場し、その負の印象が黄表紙の追随作で強調され、延長線上に合巻の艶二郎像が生まれたと思われる。

合巻の艶二郎が脇役にとどまるのは、合巻の物語作法と関係があるだろう。合巻の主人公は概して何らかの〈世界〉に依拠している。〈世界〉を持たず、愚行が笑いを誘うだけの艶二郎は脇役にならざるを得ない。逆に言えば脇役は必ずしも〈世界〉を持たなくてもよい。『樺焼』の脇役、志庵や喜之助は役回りがほとんど変わらないまま、山東京山の合巻に多く登場している。これは知名度のある脇役が生き延びた例であり、京伝の戯作上の遺産を京山が継承した例としても理解できよう。


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12. 『梅暦』を読んで考えたこと
  ― 江戸的封建制の内実について ―

福岡大

中野三敏

近代は、その出発の時点において宿命的に反近世・非江戸の姿勢を持し、更には反封建を当然としてきた。その中で、江戸庶民社会の在り様の把握に関しては、ある面、極めて片寄った視点からの誤解が常識化されてきたといえる。たとえば女性の立場について、それは封建の圧制の下に虐げられ、自由を奪はれ、ひたすら忍従の生活を強いられた、というのが、最もわかり易い姿として提示され続けてきたのではなかったか。

『梅暦』という作品に即しても、いわばそのような女性の在り方を無批判・無反省に主人公として描写することに何の疑問も感じたふしのない作者ゆえの低俗と批判するか、封建社会の閉塞状況下に、何とか恋愛小説の可能性を探った作品といった評語が与えられてきた。しかし、虚心にその作品を読んだとき、果たしてその何処に女性の自由の束縛があり、忍従が強いられているというのだろうか。そのような解釈を常識化してしまったのが、まさしく近代に於ける、江戸的封建制への極めて教条的な理解の故であったように思はれてならない。

一口に封建制とはいうものの、そこに西洋モデル(十九世紀的)と江戸モデルの違いがあることを明らかにしておくことが、江戸に即して江戸を見ると標榜する時の、どうしても必要な一項と思えてならないので、その問題を考えてみたい。


(C)日本近世文学会