平成17年度春季大会発表要旨

[大会案内へ戻る]

1. 江戸川乱歩と近世資料
  ― 旧蔵書に関する一考察 ―

立教大学(院)

丹羽みさと

江戸川乱歩は大正一二年(一九二三)に処女作『二銭銅貨』を雑誌『新青年』に発表してから、晩年に至るまで探偵小説家としての道を歩み続けた人物であるが、その一方でかなりの蔵書家としても知られていた。先年、立教大学に譲渡されたこれらの旧蔵書には、内外の探偵小説、辞書類、乱歩自身の著書類などに加え、多くの近世資料が含まれている。

乱歩は近世資料の入手時期や入手先、値段などを「和本カード」として記録しており、これによって蔵書が主に昭和一〇年頃から三〇年頃に収集されたことがわかる。

特に西鶴物などの貴重書が戦後に集中しているのは、それまで規制されていた探偵小説の執筆、発行がGHQの介入によって逆に奨励され、乱歩の収入が格段に増えたことや、戦後の財閥解体によって彼らが保持していた資料が市場に出され、入手しやすくなったことなどが重なった結果であり、この時代の社会的背景が乱歩の収集にも大きな影響を及ぼしているといえる。

また蔵書には裁判物や男色物などが多く見られるが、これは昭和一〇年以前に乱歩が、医師でありまた蔵書家でもあった小酒井不木や、『男色文献書志』(原書房 二〇〇二年)の著者、岩田準一などと交流していたことが影響している。

今回の発表では、旧蔵書の整理やそれに関する調査によって確認できた江戸川乱歩の収集に関する全体像を報告したい。


[大会案内へ戻る]

2. 西鶴の情報源
  ― 米商人世之介≠フ側面からの一考察 ―

関西学院大学

森田雅也

『好色一代男』巻七の五「諸分の日帳」冒頭には、「・・・・・・木村屋の和州、・・・・・・三月三十日の日帳を書ておくられける。是ぞ恋の山、出羽の国庄内といふ所へ下りて、米など調て、大坂への舟便もまはり遠く、・・・・・・」という箇所がある。この章は、世之介が出羽の国庄内に米の仕入れに来ていて、送られてきた大坂新町の太夫和州の「日帳」を開いたが、読めばよむほど大坂に帰りたくなるという話である。『好色一代男』が世之介の諸国好色遍歴であることはいうまでもないが、周知のごとく、前半最終章巻四の七で「大大大じん」になってからは、世之介が商いの話が絡んでくることはない。

なぜ、よりによって、世之介が「米商人」であるのか。

そこには、庄内という地と大坂を結ぶ西廻り航路という交通アクセスが浮かび上がる。

陸上交通では、『奥の細道』のような苦難の旅となる同時代に、海上交通がもたらす物流に携わる人々の盛んな往来は、西鶴作品の情報源となり得なかったか。西鶴他作品から、具体的な例をあげ、考察を深めたい。


[大会案内へ戻る]

3. 河瀬菅雄『続ふもとの塵』について

都留文科大学(非)

大内瑞恵

江戸時代前期の歌人、河瀬菅雄は正保四(一六四七)年生、享保十(一七二五)年没。菅雄には天和二(一六八二)年刊行『ふもとの塵』と、宝永六(一七〇九)年刊行の私撰集『続ふもとの塵』とがある。また、注釈書に『百人一首さねかづら』などがあり、『百人一首七首伝』『天丹遠波口伝』『天丹遠波切紙』などの伝授書がある。これらの伝授書は葛岡宣慶や中院家から伝わり、やがてそれらは大坂・含翠堂に伝わる。また、門人の一人恵藤一雄は『和歌古語深秘抄』を編纂したことでも知られる。

下河辺長流『林葉累塵集』が寛文十二(一六七二)年刊でもっとも早い私撰集として知られるが、次いで刊行されたのは『ふもとの塵』。そして、二十七年後『続ふもとの塵』が刊行される。その間、菅雄の門人たちは次々と没し、恵藤一雄は宝永元(一七〇四)年に辞世の歌を残して亡くなっている。その歌は歌友といえる人々に知られ、例えば儒者の三輪執斎は大坂平野の土橋四郎兵衛に一雄の歌を伝え、その死を悼んでいる。このように『ふもとの塵』で活躍した歌人たちのその後の姿は『続ふもとの塵』において垣間見ることができる。『続ふもとの塵』は上中下三冊からなり、刊記は「宝永六乙丑九月/一條通鏡石町富倉太兵衛」。しかし、構成をはじめとして版元に至るまでこの二点にはさまざまな違いがある。

本発表では江戸期の歌人および私撰集について河瀬菅雄を中心に考察したい。


[大会案内へ戻る]

4. 長孝の添削指導
  ― 祐庵の詠草集から ―

龍谷大学

日下幸男

大阪市立大学森文庫本『古歌拾遺集』三冊(都合墨付二二一丁)は、富松祐庵の和歌詠草を望月長孝の添削指導や評言をも含んで忠実に書写したものである。そこには祐庵詠一三〇〇首余りが収められており、他に類を見ないものである。おそらく天下孤本と思われる。長孝没後、一門は長雅派と唯元派に分裂し、長雅派が主流となって和歌や伝授の資料を多く残しているのに対して、唯元派は傍流となって資料をあまり残していない。しかし長孝死没時点では、唯元は長孝猶子としてふるまい、長孝自筆本を多く継承している(それらは長堀住友家を通じて大阪府立中之島図書館に寄贈されて、現在に至っている)。拙著『近世古今伝授史の研究地下篇』(新典社、平成十年)執筆時点では、唯元一派の和歌活動を知るには『文翰雑編』ぐらいしかなく、資料不足を嘆いていたのであるが、偶然『古歌拾遺集』と出会うことを得て、祐庵はもちろん久恒・高門・重知など周辺歌人の活動、あるいは長孝の添削指導の具体的有様を見るに至り、雲間に一条の光を見いだした次第である。本発表では、肝心の長孝の添削指導の具体的有様を中心にご報告し、大方のご教示を得たい。


[大会案内へ戻る]

5. 『松花堂芳野道の記』について

九州大学

上野洋三

さまざまの名称で書写されるが、寛永十五年三月、昭乗が江月宗玩とともに吉野の花見に出かけた往復を記すもので、六日から十六日まで、十一日間、各地で詠まれた昭乗の和歌、宗玩の漢詩を記録する。近世初期の紀行の一例として、作者の手さぐり足さぐりのさまが如実に感知される点について考えたい。たとえば、『海道記』にせよ『東関紀行』にせよ、寛文年間の刊本が普及の始めであり、歌書全体にひろげても、板本の刊行は寛永中期以降に始まるのが普通であった。即ち、雅文の紀行という文章を夢想して描く場合、手本とすべき先例は、伝聞をたどり写本を求めるほかは、まことに乏しかった。

古典的紀行・日記とも、実用の記録とも別に、寛永期の文人が、どのように文芸的紀行を楽しみつつ記録したのか。とにかく本文を示して、大方の御教示を得たい。


[大会案内へ戻る]

6. 「敵討噂古市」にみる黙阿弥が描いた善人像

早稲田大学(院)

埋忠美沙

河竹黙阿弥が四代目市川小団次との提携によって生み出した世話狂言の数々は、歌舞伎史において一時代を築くが、その主人公の多くは白浪物をはじめ悪事を働く人物である。善人になりたいと焦燥煩悶している彼らは、己の悪事が血縁に酬いたことを知ったとき、因果におののき善に戻る。従来の黙阿弥研究において、小団次との提携作品は悪事を働く人物に注目して語られることが中心であった。

そのなかで異色ともいえる作品が、善人である百姓正直清兵衛を主人公にした「敵討噂古市」(安政四年五月市村座、通称「正直清兵衛」)である。本作で黙阿弥は、対極にある悪よりも善人である清兵衛を描くことを主眼にしており、愚直ともいえる正直者で酒癖の悪さという欠点をもつ人物として、清兵衛に強烈な個性を与えた。耐える善人、誠実な善人という、歌舞伎に登場する類型的な善人像におさまらない主人公清兵衛は、どのように造型されたのだろうか。

本発表では、清兵衛という人物にまつわる、黙阿弥の作劇法と小団次の演技術を考える。具体的には黙阿弥の作劇法として、従来から「敵討噂古市」の素材として指摘されていた講談に加え、清兵衛の行動と類似が指摘できる実録をあげ、その影響関係を考察する。物語の舞台となった伊勢の風俗も、清兵衛の人物造型に影響をあたえていると考える。また舞台を描いた錦絵から、小団次が清兵衛にどのような性格を与えたか、その演技術も考察したい。


[大会案内へ戻る]

7. 勝俵蔵の初期作『けいせい井堤〓』をめぐって

東京大学(院)

光延真哉

天明六年十一月、金井三笑は十年の沈黙を破り、中村座の立作者として劇界に公式に復帰する。この時、三枚目の作者として同座したのが、三笑に入門して間もない勝俵蔵、すなわち後の四代目鶴屋南北である。

天明七年四月、中村座所演の『けいせい井堤〓(いでのやまぶき)』は、寛延二年十二月、大坂大西の芝居・三枡大五郎座で初演された、並木正三作の『大和国井手下紐(やまとのくにいでのしたひも)』の再演である。その台帳は従来未紹介であったが、大久保忠国氏旧蔵の抱谷文庫には四冊の台帳が現存している。第一冊目は江戸での再演時に付け加えられた二立目・三立目にあたり、その表紙には「勝俵蔵」の名が見られる。つまり、南北の作品としては、為永春水作の人情本『祝井風呂時雨傘(いわいぶろしぐれのからかさ)』巻之五、第十回所収の「鯨のだんまり」を例外として、現在確認できる最も古いものになる。

そこで本発表では、俵蔵が担当したこの部分を検討し、俵蔵が得意としたおかしみの場面のほか、お家の重宝をめぐる争いや、荒事、所作事、「髪梳」の趣向など、歌舞伎の様々な要素が破綻なく盛り込まれていることを指摘する。さらに、「三笑風を専らにし」(『作者店おろし』)たと言われる俵蔵だが、見習い時代の本作にも、小道具による伏線という点において、「初め出したる品を後々迄遣ひて役に立」(『戯場年表』)という三笑の作風の影響が見られることを明らかにする。

*〓は「草冠+さんずい+前」


[大会案内へ戻る]

8. 竹本筑後掾の後継者問題と豊竹若太夫

関西学院大学(院)

石田賢司

貞享元年(一六八四)大坂道頓堀に竹本座を開いて以来、人形浄瑠璃界をリードしてきた竹本筑後掾だが、正徳四年(一七一四)九月十日の没後、その後継者の決定が順調に行われなかったことは既に先学によって指摘されている通りである。

この竹本座の後継者問題に、同じく道頓堀で櫓を上げていた豊竹若太夫が少なからず関わっていたのではないかとするのが本発表の目的である。たとえば、筑後掾の葬儀の施主を若太夫が勤めた件や、竹本座の座頭候補であった多川源太夫や竹本左内が豊竹座に移籍している件である。また、後継者問題が解決していない正徳五年秋に若太夫は上野少掾を受領しているが、これも竹本座の後継者問題と関連付けて考えてみたい。一可能性として、若太夫は竹本座太夫陣の弱体化に乗じて豊竹座を強化し、人形浄瑠璃興行界で優位に立とうとしたのではなかろうか、ということも考えられる。

しかし、結果としては竹田出雲と近松門左衛門の努力による『国性爺合戦』が太夫陣の弱体化を補い、その大当りによって竹本政太夫を中心として竹本座は筑後掾生前にもなかった程の盛況を催す。また、同時期に豊竹座でも『鎌倉三代記』が流行しており、『竹豊故事』などが伝える東西両座の対抗とそれによる人形浄瑠璃の発展がこの時期に認められると考えられるが、そこに至るまでの経緯を考察したい。


[大会案内へ戻る]

9. 『孕常盤』考

神戸女子大学(非)

川端咲子

『孕常盤』は宝永八年閏八月上演と推定される近松門左衛門の浄瑠璃である。『孕常盤』には@『橋弁慶』の世界、A常磐を主人公としたいわゆる「常盤物語」、B紀州の豪族鈴木氏の物語、C「浄瑠璃御前物語」といった中世以降近世に至るまで流布していた義経の物語の諸要素が織り込まれており、そこに新たに宝永期の浄瑠璃らしい要素がつけ加えられた浄瑠璃であると言ってよい。

Bの鈴木氏の物語とは、『義経記』舞『高館』謡曲『鈴木』(『追掛鈴木』『生捕鈴木』など)に描かれ、古浄瑠璃としても上演された記録のある鈴木三郎重家の物語である。しかし、『孕常盤』にはこれら『義経記』以下の中世文芸とは異なった鈴木三郎譚が描かれている。近松には他に『源義経将棊経』(正徳元年正月二十一日以前上演推定)にも鈴木三郎重家が登場する。これは謡曲『鈴木』と関連するように考えられるが、やはり謡曲から直接摂取されたのではないことが明らかである。また、加賀掾の浄瑠璃『遊屋物語』とその続編『うしわか虎の巻』にも鈴木氏が登場、前者と『孕常盤』には共通点が指摘でき、後者では鈴木氏の活躍は話のかなり大きな比重を占めている。そこで、「鈴木氏の物語」に着目し、この浄瑠璃の先行文芸・先行浄瑠璃・同時代文芸との関わりについて考察する。あわせて、宝永期の浄瑠璃として同時代の演劇との関わりについても考察をできればと考えている。


[大会案内へ戻る]

10. 八犬士の成立について

奈良女子大学(院)

的場美帆

『八犬伝』の八犬士の成立については、それと併行して、七犬士・七馬士・九牛士の着想があったと、馬琴は書翰及び新刊予告にいう(林美一氏・高木元氏)。馬琴は、それら「七」「八」「九」の「士」の着想をどこから得たのであろうか。

馬琴が『八犬伝』肇輯「八犬士伝序」において、八犬士の拠り所の一とする「槙氏カ字考」(『書言字考』)には、八犬士のみならず、右の七馬士・九牛士も、全て姓名付きで掲げられているのであった。

ところで、九牛士の登場する『尼子九牛一毛伝』という書名の「尼」「九」「一」からは、同じ『書言字考』に出る「尼子十勇十介」のことが注意される。しかも、この十人の筆頭の「山中鹿助」について、馬琴は既に「山中鹿之助/野中牛之助」という角書の『十三鐘孝子勲績』という合巻を書いていて、「牛之助」の名は『八犬伝』中で言及され、また「鹿之助」は、馬琴が『九牛伝』の構想を譲ったと述べる、為永春水の『十勇士尼子柱礎』の主人公になる。

では、七馬士についてはどうか。それは不明であるが、『八犬伝』との関係で考えると、馬娘婚姻譚をその典拠の一と推定された山口剛氏の説を思い合わしてよいように思われる。

本発表では、以上、八犬士の成立までに着想されたことがある、「七」「九」「十」の、「牛」「馬」「鹿」の、「士」について、見直してみたい。


[大会案内へ戻る]

11. 京伝合巻と板元たち

明治大学(非)

二又 淳

水野稔「京伝合巻の研究序説」(『江戸小説論叢』所収)『山東京伝年譜稿』を参照すると、山東京伝の黄表紙は、主に鶴屋喜右衛門と蔦屋重三郎の二板元によって出板されているが、文化四年以降、合巻の時代に入ると、新興の板元を加え、多様な板元から合巻作品が出板されていることが確認できる。

文化九年ごろからは、各板元から毎年一点ずつの合巻が出板されるというのがパターン化されてゆく。文化年間には、京伝は執筆活動の比重を戯作から『近世奇跡考』『骨董集』といった考証随筆に移していくことは周知のことである。この時期京伝は、板元たちに年一点ずつ新作を与えることで、義理を果たしていたもののようである。

すでにこのことについては、おおさわまこと「不運の初代哥川豊国《11》」(「季刊浮世絵」第百冊、昭和六十年三月)に、「京伝が意識的に原稿を各書肆に一点宛配分し」と指摘されていることではあるが、本発表では、板元の新板目録(奥目録)や序文の成稿時期の記載・作中の新刊広告の記載などを確認しつつ、再検討してみたい。

板元や作者京伝の何らかの事情で、作品の出板が遅れたとしても、翌年は新たな作品を執筆せず、各板元一点の原則を守り通した京伝には、江戸戯作を代表する作者としての、作者意識を見ることができようかと思う。


[大会案内へ戻る]

12. 惟中寓言論の戦略性
  ― 宗因・即非・西鶴をめぐって ―

京都府立大学

藤原英城

談林俳諧の理論的支柱が惟中の寓言論にあったことは周知のことであろうが、その喧伝者たる惟中と盟主宗因、また西鶴との間には寓言論に対する認識の差異やある種の温度差が生じていたこともまた事実であった。だが、しばしば宗因と惟中の寓言論は混同され、惟中の寓言論をもって宗因の代弁者たらしむるかのごとき論調も見受けられもする。もちろん、宗因自身の寓言論が断片的にしか伝わらず、また惟中は宗因の言説(と称するもの)を自説の拠り所とするために、両者の寓言論の境界線が曖昧となってしまっていることは否めない。

そこで本発表では、両者の寓言論の境界線をいま少し浮き彫りにする一つの試みとして、その寓言論の言説内容の比較分析というような正攻法からではなく、やや視点をずらして、惟中寓言論の談林派内外における党派的戦略性といった観点から再検討してみたい。その際、惟中寓言論の特徴と見られる『荘子鬳斎口義(林注)』の利用背景を中心に、宗因と即非禅師との関わりや西鶴の『生玉万句』序との関連などについても触れてみたい。


[大会案内へ戻る]

13. 其角と紀行
  ― 『新山家』をめぐって ―

大阪大学(院)

辻村尚子

貞享二年五月、其角は箱根木賀山の温泉に赴いた。その折の紀行が『新山家』として刊行されている。折しも、其角が出立する直前の四月末、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅を終え、江戸に帰着した。芭蕉が最初の紀行『野ざらし紀行』を編んだのとほぼ同時期に、其角の『新山家』は成立したと思われる。本発表では、いまだ俳諧において紀行というジャンルが確立していなかった時期に、其角がどのような工夫をもって自らの旅を綴ったのかについて、作品を読み解くことで明らかにしたい。

この旅で其角は、木賀から鎌倉に向かい、円覚寺で大顚和尚の位牌を拝し、帰路金沢を通過している。この旅程及び内容から、本作品には、二つの性格があると考えられる。一つは、木賀温泉の旅亭の主、文鱗を訪れての訪問記としての性格。もう一つは、貞享二年一月に没した其角の師、大顚和尚の追悼集としての性格である。これらの要素を、其角は単なる旅の事実の記録ではなく、一つの紀行作品として仕立て上げた。その際其角のとった発句の提示の仕方、文章の作り方等について、先行の紀行作品との関係を視野に入れつつ考察する。そこには、『奥の細道』に通じる方法をも見ることができる。しかし、其角は芭蕉のように「風狂の旅人」などと称されることはなかった。其角にとって紀行とは何であったのか。右の考察をふまえ、其角の紀行に対する意識についても言及したい。


[大会案内へ戻る]

14. 儒流の俳人午寂と享保俳壇

福岡教育大学(非)

大庭卓也

つねに漢詩文壇の動向を強く意識し、雅文学たろうとしていた俳諧文学にあって、漢文学との関連を明らかにしてゆくことは、重要な研究課題のひとつと言えよう。もちろん、この点に関しては、先学による相当な研究が積み重ねられているのだが、俳人たちが身近に接していたはずの、同時代における日本漢文学との影響関係に関しては、いまだ充分に検討されているとは言い難い。私は先に、山口素堂と林家の儒者たちの交渉を検討し、芭蕉周辺と同時代の漢文学との接点を浮き彫りにしようと試みた(「山口素堂と江戸の儒者をめぐって」(「連歌俳諧研究」第百六号 平十六・二)。本発表では、その続編として、午寂の俳壇における位置を検討する。午寂は、林家の儒者・人見竹洞の甥、『本朝食鑑』の著者として知られる人見必大の息である。刊行された多くの俳書に句を入集、あるいは序跋文を寄せるなど、芭蕉没後の俳壇に占める位置は大きいものと言わねばならない。その俳諧活動の全容を提示し、もって、素堂と江戸の儒者の交渉が、その後の文学史にどのように展開してゆくのか、元禄〜享保期における俳諧と漢文学との交渉史の一端を明らかにしたいと思う。


[大会案内へ戻る]

15. 投壺論の系譜

明治大学

徳田 武

明和・安永の頃、文人趣味の一環として行われた投壺は、先ず大枝流芳の『雅游漫録』(宝暦十三年刊)巻之七に収められる「投壺」によって、世にその存在が流布された。流芳は、自己の投壺論の源泉を「司馬公の定る所のもの」という言い方で暗示しているが、本発表では第一に、それが元の類書である『事林広記』(元禄十二年和刻)戊集二の「投壺新格」に拠るものであることを明らかにする。とりわけ、『雅游漫録』の矢と壺の插図が「投壺新格」のそれに基づいているものであることを、図示によって明らかにする。

次に、都賀庭鐘の息大陸の『投壺今格』(明和六年刊)が、『雅游漫録』の投壺論を継承すること、大陸は特に、『礼記』投壺の古礼に基づき、「投壺新格」及び、やはり『事林広記』所収の「投壺旧格」を参照して、投壺の縁起を略述し、法式を復原することを意図していること等を述べる。

更に、翌明和七年に刊行された田中江南・菊輔合著の『投壺指南』をも取りあげ、それが「投壺新格」を参照していながらも、先行二書の業績を意識する余りに、換言すれば、独自性を出そうとする余りに、根拠のない用語や法式を羅列する弊に陥っているのではないか、ということを述べる。


(C)日本近世文学会