平成19年度秋季大会発表要旨

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1. 「鬼神のお松」の生成
  ―歌舞伎における脚色を中心に

東京大学(院)

神林尚子

仮名垣魯文作の合巻『薄緑娘白波』(慶応四年〜明治四年刊)は、「鬼神のお松」の物語を主題材とした作品である。従って、この作品の特色を分析するには、まず「鬼神のお松」の物語の生成過程を検証する必要がある。

奥州笠松峠の女盗賊「鬼神のお松」は、文化期のちょんがれに起源を持ち、様々な文芸作品に利用されているが、その生成と変容の過程は十分に明らかにされていない。前田裕子氏は「「鬼神のお松」の展開」(『青山語文』二五号、一九九五年三月)等で、合巻、読本、切附本における展開を整理しているが、生成過程の体系的把握のためには、歌舞伎や講談を含めた検討が不可欠である。

その第一歩として、本発表では近世の歌舞伎における「鬼神のお松」の展開を検証する。まず、この題材が、従来俗文芸に利用された最初の例とされてきた文政九年刊の合巻『笠松峠雨夜菅簑』(墨川亭雪麿作)以前に、既に歌舞伎『吾妻海道茶屋娘』(文化十三年一月、北堀江市之側芝居初演)に利用されていたことを述べる。以後、歌舞伎における脚色の過程を概観するとともに、他ジャンルの「鬼神のお松」ものの諸作品との関連についても展望を示す。

ちょんがれに由来する「鬼神のお松」は、写本の所謂「実録」に扱われず、歌舞伎を含む俗文芸の作中に利用されて生長してきた。この特徴から、この物語を広義の「実録」の中でも、より断片的な風説に由来する「巷談」の一種とみなす視点をも提示したい。


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2. 『国性爺後日合戦』の再検討
  ―近松の描いた国性爺像の意味―

青梅市立新町中学校

大橋里沙

近松作『国性爺合戦』『国性爺後日合戦』は、当時の華夷意識の一端を表すものとする見方があり、これに関連して二作品の国性爺像の間には、落差や矛盾があることが指摘されてきた。しかし近松の国性爺を描く姿勢は、自他国の優劣を意識するような華夷意識を反映した流行とは一線を画していたと考えられ、二作品を通して国性爺像を常に親子関係の中に描き続ける点において一貫しているため、必ずしも二作品の間に矛盾があるとは解釈されない。むしろ『国性爺後日合戦』では力業を好み謀略を嫌い、親への孝行を行動理念とする前作の国性爺像を意識的に強調し表面化させており、これを通して自国と他国を相対化する視点を打ち出している。

一方、近松の二作品の前後に刊行された種々の作品には、優れた軍術家としての鄭成功像が描かれており、近松との違いは明白である。本発表では『国性爺合戦』以前の作品として、『明清闘記』(寛文元年)、『明季遺聞』(寛文二年・鄒?)、浄瑠璃『国仙野手柄日記』(元禄十四年・錦文流)、『国性爺合戦』直後の作品として、浮世草子仕立ての『国性爺御前軍談』(享保元年・西氏安斉)、浮世草子『国姓爺明朝太平記』(享保二年・江島其磧)、漂流記の体裁をとる『今和藤内唐土船』(享保二年・閑楽子)を取り上げこれらを確認する。

さらに『国性爺後日合戦』に示された国性爺像を描く近松の姿勢は、七年後の『唐船噺今国性爺』からも確認される。


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3. 「慰改て咄しの点取」考
  ―西鶴の「物は尽し」―

大阪大学(院)

浜田泰彦

『本朝二十不孝』「慰改て咄しの点取」(巻一ノ四)で、難波の塩屋何某の一人息子が、出家遁世して身を持ち崩す契機となる、当時流行した咄の点取勝負について、先行注釈では「出題によって小咄を作り、最高点を争う遊び」(松田修氏校注『新編日本古典文学全集76』)といった理解にとどまっている。当該箇所は、数人で咄を思案する座が設けられており、参加者の咄を点数で評価するルールがあったために、安永期以降上方に出現する「咄の会」の先行例としても注目されてきた一方で、点付のシステムや、小咄の形態・内容が必ずしも明かにされているわけではない。その要因の一は、久保田啓一氏の論考に、塩屋の息子が心を乱し、無用の出家に導かれる過程の描写が「還咲の花の陰に哀に可惜物」以下、五つの「おりふしの兼題」に関連づけられるという指摘があるものの、兼題そのものについての検討が従来、必ずしも充分でなかったことにあると思われる。

この場面で参加者に要求されているのは、オチのある、所謂「小咄」ではなく、「?物」という題目で分かるように、「物は尽し」形式に基く咄の製作ではあるまいか。西鶴は浮世草子の文体に「物は尽し」を採用しており、さらに、「物は尽し」の遊女評判が『好色一代女』巻五ノ四、『好色盛衰記』巻三ノ一で数人の男による座興で行われてもいる。本発表では「物は尽し」をもって咄の点取勝負の形態の根拠としたい。


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4. 唐冠考
  ―『帝鑑図説』受容一端―

国文学研究資料館

入口敦志

近世初頭、『帝鑑図説』の挿絵を基に、多くの障屏画「帝鑑図」が描かれた。しかし、どの版本を使ったのかについては確定した説がまだ提示されていない。明版はいずれも整版本で、万暦元年(一五七三)刊とされる書陵部蔵の大型本(甲本)、万暦期の刊本(乙本)、さらに万暦三十二年刊の金濂版と呼ばれるものの三種類があり、我が国においては、秀頼版として知られる絵入の古活字本が慶長十一年(一六〇六)に刊行される。

それぞれの挿絵を詳細に比較してみると、甲本の構図を利用して乙本が描かれ、乙本の構図をかなりの部分忠実に模写して秀頼版が出来たと結論づけられる。金濂版は乙本をもとにして、かなり自由な書き換えをしており、系統を異にする絵というべきもの。

秀頼版の絵は、相当に乙本に似せていながら、細かい点で誤りや意図的と思われる描きかえをしている。「露台惜費」の場合、明版はすべて露台を台として描いているが、秀頼版は柵に描きかえている。狩野探幽筆名古屋城上洛殿の襖絵「露台惜費」は、露台を柵として描いており、探幽は明らかに秀頼版を基に描いたことがわかる。更に、秀頼版は人物の冠を多く唐冠に描きかえている。多くの障屏画は明版にない唐冠の人物を描いており、やはり秀頼版を基にしているといえよう。では何故「唐冠」なのか。そのことを、実際の中国とは異なる日本風中国像の形成という点から考察し、和刻本出版・受容の文化的背景に迫ってみたい。


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5. 『肥後道記』の典拠と主題

山口大学

尾崎千佳

『肥後道記』は、二十九歳の西山宗因が、寛永十年九月二十五日、親類知友と別れて故郷熊本を発ち、十月十四日、京都堀川本圀寺に隠棲中の主君加藤正方(法名風庵)の許にたどり着くまでの、約二十日間の紀行である。高知県佐川町立青山文庫所蔵の宗因自筆本は、外題簽を欠き、「幽林野子」なる署名も他に使用例を見ないものの、巻末に寛永十六年に没する豪信僧都との和歌贈答を録するところから、実際の旅よりさほど降らない時期の浄書にかかると推定される。

右記自筆本は小宮豊隆氏による解題・翻刻を付す審美書院版の複製によってつとに著名であり、本書が加藤正方との関係を中心とした宗因伝の根幹資料として扱われてきたことも周知の事実であろう。いっぽうで、伝記資料としての有用性ゆえに、その文学性の解明は立ち後れた憾みがある。石川真弘氏「西山宗因『肥後道記』小見」(『俳文学研究』第18号・平成4年10月)は、本書があくまで紀行文学作品として執筆されたことを主張しており、注目されるが、全体の構成や表現手法を『土佐日記』に倣ったとする点、検討の余地があると考える。『肥後道記』の依拠する古典はすこぶる広範にわたり、その古典依拠の意味あいも含めて、より詳細な分析が求められよう。

本発表では、『肥後道記』における古典利用の方法を明らかにしつつ、それが『肥後道記』の中心主題といかに関わるかを論じたい。


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6. 近世前期大名における孝子表彰と孝子伝
  ―松平忠房の事例を中心に―

明星大学

勝又 基

天和〜貞享期、幕府が盛んに孝行を奨励した事はよく知られている。しかしそれに先んじて、寛文期には藩レベルでの孝子表彰とその文章化が既に始まっていた。この時期を近世的な孝子説話の発生期と位置づける事ができようかと思う。

この時期の大名でまず挙げられるべきは、すでに研究も備わる岡山藩主・池田光政である。さらに、今まで重視されて来なかったが、丹波福知山藩主・肥前嶋原藩主を歴任した松平忠房も、特筆すべき孝子表彰を行っていた。

このたび松平忠房をめぐる資料調査を行った結果、彼の表彰方法や孝子伝作成方法が、前述の池田光政とは好対照を成している事が分かった。とくに孝子を表彰したほとんどの場合において林鵞峰・鳳岡、人見竹洞といった林家の儒者に孝子伝を執筆させているのは、当時において他に例を見ない特色である。

そして、林家によって書かれた孝子伝は、他藩で成ったものとは、その目的という点で根本的に性質が異なっているようなのである。そう考える理由を説明しながら、近世前期大名にとって孝子伝とは何だったのか、という問題についての私案を示したい。 時間が許せば、当代の孝子伝を総括した観のある藤井懶斎編『本朝孝子伝』(貞享二年刊)「今世」部など、享受史の問題にも触れたいと思う。


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7. 関亭伝笑の合巻
  ―作品の特徴と作者の工夫―

安田女子大学大学院研修員

義田孝裕

文化四年、合巻のはじまりと時を同じくして文壇に登場した関亭伝笑は、以降天保七年までに二十六作品(改題本を含む)を世に送り出した。それらを通覧すると、『怪談梅草紙』(文化四・一八〇七年刊)と『運輝長者万灯明』(文化九・一八一二年刊)、および後者の改題本『運輝長者之万灯』(文化十・一八一三年刊)の三作品は黄表紙に近い内容を持つものの、それらを除いた二十三作品はすべて、通例のごとく敵討ちを主軸として構成されたものである。

とはいえ、一口に敵討ちといってもすべてが同様に描かれているわけではない。たとえば、討ち手が敵を追うといった枠の中で、討ち手が突如として逆に追われる身になるといった変化を加えたり、作中に諸国の名所・旧跡・伝説を盛り込んだり、さらには由来譚仕立てに創作したりと、それぞれに工夫の跡が読み取れ、作品ごとに様々な色付けがなされている。あるいはまた、歌舞伎色を強めた他の合巻とは異なり、敵討ちの筋立て自体にしても、末期黄表紙に近いという傾向がみうけられたりもするのである。

そこで本報告では、合巻の歴史とともに歩みながらも、これまで正面からとりあげられることのなかった伝笑の敵討ち作品を軸に、敵討ちの経過とその描かれ方、登場人物の人間関係、作中の趣向などを中心に工夫の跡を整理する。そのうえで、伝笑合巻の全体像からうかがえる特徴を考察し、合巻の一端を明らかにしたい。


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8. 『桜姫全伝曙草紙』の方法
  ―『艶道通鑑』をめぐって―

日本学術振興会特別研究員

本多朱里

増穂残口の『艶道通鑑』は、夫婦男女の和合を全ての根元とし、神代から当代までの恋の話を集め独自の視点で評を与えた、魅力的な面白さをもつ神道講釈書・談義本である。本書が当時広く読まれていただけでなく、後続の作品に多大な影響を与えたことは、これまで中野三敏氏などによって明らかにされてきた。『艶道通鑑』を剽切・模倣した作品は、初期読本である上田秋成の『雨月物語』をはじめ、談義本、仏教勧化物、洒落本など広範囲に及ぶが、ここで新たに、後期読本である山東京伝の『桜姫全伝曙草紙』への影響を指摘したい。

『桜姫全伝曙草紙』は『勧善桜姫伝』という明らかな粉本があるが故に、その典拠を論じるとどうしてもこれに帰結してしまいがちである。しかし、主要登場人物である清玄も、『勧善桜姫伝』の清源を焼き直しただけのように見えながら、実は、『艶道通鑑』から多くを摂取してつくりあげられていることがわかる。他にも、本書から文辞を得ている部分は数箇所みられ、京伝が『桜姫全伝曙草紙』著作にあたって、『艶道通鑑』を典拠としたことは明らかである。談義本や初期読本を生み出すきっかけともなった『艶道通鑑』が、後期読本にも直接的に影響を与えていたことが指摘できよう。本発表では、『艶道通鑑』と『桜姫全伝曙草紙』との関係を指摘するとともに、『桜姫全伝曙草紙』の典拠を再確認し、その方法について考察する。


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9. 栗杖亭鬼卵の読本と実録

島根大学

田中則雄

後期上方読本の作者・栗杖亭鬼卵の『二葉の梅』(文化十刊)、『再開高臺梅』(同十四刊)が、それぞれ実録『北野聖廟霊験記』『敵討氷雪心誌録』を典拠とすることについて報告し、実録の利用から見える鬼卵読本の作法上の特質について論ずる。

鬼卵は『二葉の梅』において、石見三郎左衛門(敵役の悪漢)が「深雪丸の霊剣」を所持するとした(実録では単に「守り刀」とする)。但し江戸読本流のごとく、この剣に因果を内在させ人の命運を統御すると描く方法は採らなかった。石見は一方で剣術家として人を心服させつつ、この剣の霊威を見せ付けることで神人と崇めさせ、庇護を得たとする。即ち鬼卵の関心は、敵として狙われる石見の我が身を守ろうとする思惑と、それに欺かれてしまう人々の心情とに向けられている。また『再開高臺梅』では、実録には登場しない関口内蔵之進という人物を設定する。関口は、父親を討たれた主人公お縁の無念と、敵討を切望する心情とを知って強く心を動かされ、彼女に剣術の秘伝を教えた。

ある事件が次の事件を生む必然性の説明は実録にも備わる。読本作者はこれに加え、人間の心情にまで描写を及ぼし、心情の連鎖が事件を生むように書く。文化期後半の上方読本界にあって、鬼卵も江戸風の摂取融合を意識しつつ、実録の読本化という点においては、既に享和期以来速水春暁斎が提示していた上方〈絵本もの〉の方法に大きく拠ったと見られる。


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10. 鴛河申也の江戸歌壇における活動
  ―祐徳中川文庫の遺稿群を中心として

九州大学(院)

進藤康子

江戸時代中期の地下歌人鴛河申也は、佐賀鹿島藩第六代藩主鍋島直郷の和歌の師であった。申也についての大筋は、井上敏幸氏に先行研究がある。

申也は、風絃堂(長賢)と称し、享保期の江戸歌壇においては、ある程度名の通った師匠であったと思われ、垂加流神道の井田道祐門下村田春道も申也に学んでおり、また、伊達文庫蔵『新玉津嶋社奉納和歌』(享保四)に、「江戸申也門弟中都合三十一首奉寄納春十首」等が収載されている。中川文庫蔵『一人三首和歌』には、六十人の歌友が、『四十賀之記』(正徳五)には、申也ゆかりの五十数名の和歌と漢詩が見え、梁田蛻巌や萬庵和尚の名もある。

特に注目されるのは、『甲寅記行』『道記』『凶草』や『鴛河申也歌文集』などにおける歌文の量の多さと、その質の高さである。また、『中院前内府通茂公口伝』の表紙裏の直郷自筆の歌の系図には「幽斎─貞徳─長孝─祐庵─申也」と書き付けているが、二十歳の直郷は、長孝門の祖父直條から継承した文事に加え、申也から百人一首の伝授を受け、和歌の添削及び歌学を学ぶ。『岐蘇紀行』に「右添削請風絃堂 風窓堂長臥(直郷)」「広沢流長臥」「風絃堂門弟随一長臥」と記し、申也の歌の継承者として、後に直郷自からが和歌の指導や伝授を行う。本発表では、中川文庫にまとまって所蔵される申也遺稿群のあらかたを紹介し、そこから看取できる申也の活動及び申也を取り巻く当時の江戸歌壇の一面を示したい。


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11. 花月草紙の成立

熊本県立大学

川平敏文

楽翁松平定信が退隠後に行なった文事については、以前からその質的な高さが注目されていたが、近年ようやく本格的な研究が緒についたようにみえる(岩波書店『文学』二〇〇六年一・二月号特集)。本発表では彼の代表作『花月草紙』に焦点を絞って、その成立の問題を中心に、本作周辺の諸問題について考えてみたい。

『草紙』は四百点を超える定信の著述の中でも、彼が生前に刊行することを許した数少ないものの一つである。その文章は典雅かつ論理的な和文で、寓話的な内容が多いのを特徴とする。本作成立の問題については、戦前に、彼の未刊随筆『退閑雑記』との内容的重複が見られること、刊行に至るまでに数次にわたる推敲のあとが窺えることなどが、定信の蔵書を受け継いだ子孫の手によって報告されている。しかし戦後は、定信に対する歴史的(文学史的)評価の変容、終戦直後の混乱における資料流出などもあって、その研究はほとんど進捗していない。

本発表では、彼が『草紙』編述と並行して執筆していた和文日記『花月日記』の読解を中心として、『草紙』成立の問題をめぐるいくつかの新しい知見を報告する。具体的には、本作が文化十年頃から徐々に執筆され、文化十三年九月頃にその原型が出来上がっていたこと、中国・明代の文人劉基の随筆『郁離子』の影響を受けた部分があると思われること、またその刊行に大学頭林述斎が関与した可能性があること、などの諸点である。


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12. 昇道筆秋成消息文集について

大阪大学

飯倉洋一

『藤簍冊子』の編集に深く関わり、その版下筆者でもある昇道の手になる半紙本一冊の写本がある。内容は前半が八編の消息文、後半が「享和三年亥四月十二日升庵当座十五番歌合」で、熊谷武至『續々歌集解題餘談』(一九六八年)に紹介された同氏旧蔵本である。後半の歌合が升庵(昇道)の自宅での歌合であることから、熊谷氏は前半の文章群を昇道作と考えられたが、実は秋成の『文反古』(文化五年刊)ないしその草稿と目される〔文反古稿〕(仮題、ほぼ秋成自筆。天理大学附属天理図書館蔵)の異文を含んでおり、秋成の消息文集と考えて差し支えない。後半の歌合は、小沢蘆庵社中である敬儀・布淑・宗順らによる催しで、この本文も他に伝来を知らないが、本発表では前半に絞って検討する。昇道は『文反古』の版下も書き、当然その編集にも関わっていたと想定される(『上田秋成全集』第十巻解題)が、本書はそのことを物語る生の資料であり、これにより『文反古』成立の一斑を明らかにすることが出来るだろう。たとえば冒頭の消息「十時学士におくる」は、『文反古』所収文の異文だが、〔文反古稿〕所収文にも先行すると考えられる。また表千家流の茶人である稲垣休叟あての消息(『文反古』・〔文反古稿〕未所収)も存在し、従来知られていない秋成の交友を示す新資料としての価値も認められる。本消息群はその内容から、享和三年、秋成が大坂大江橋畔に寓居していたころに昇道が収集した可能性が高い。


(C)日本近世文学会