平成22年度秋季大会発表要旨

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1. 朝比奈図像考
  ―朝比奈と鶴をめぐって―

慶應義塾大学(院)

星 瑞穂

本発表は、中世から近世にかけて、様々な文学に登場する朝比奈三郎義秀について、特にその図像の直垂や具足等の扮装に着目して論じるものである。

朝比奈が登場する文学を概観すると、詞章の面では、朝比奈の姿については、立派な体躯である等、定型化した英雄らしい姿が書かれるだけで、特にその扮装に触れられることはほとんどない。だが、近世中期以降、浮世絵に描かれた朝比奈の図像は主に歌舞伎の舞台を元にしたものとして、鶴の丸の素襖を着る。文久三年の浮世絵「古今俳優似顔大全」には鶴の素襖を着た初代中村伝九郎が朝比奈役として載り、ここには歌舞伎における朝比奈の扮装の元祖は初代中村伝九郎だと記される。その典拠は、明和六年刊『明和伎鑑』である。猿若座四代目中村勘三郎の項に、鶴の丸は元来中村伝九郎の紋だったとある。

ところがその初代中村伝九郎が朝比奈を初めて演じた元禄十年よりも以前、寛文二年出版の古浄瑠璃正本『あさいなしまわたり』の朝比奈の挿絵が、すでに鶴の丸の紋の直垂を着ている。さらに注目すべき点は、国文学研究資料館所蔵の古活字版『曽我物語』でも、五郎時宗との草摺引の場面の挿絵で朝比奈はすでに鶴の直垂を着ているのである。つまり寛永頃にはすでに鶴の紋の直垂が、朝比奈のマーカーになっていた。近世初期に絵師によって意図的に使われたマーカーは、中期以降、人々に忘れられてしまったのである。


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2. 国芳の水滸伝絵画
  ―魯智深を中心に―

立命館大学(院)

周 萍

文学に視覚的な空間を構成する絵師の創作は、描写を再現することではあるが文字情報だけでは具体的な表現が足りない。外国の作品の場合は言葉などの原因でさらに困難になる。絵師が身についている技法や学識は絵の創作に大きく影響する。江戸時代に「水滸亭」と呼ばれていた歌川国芳の場合も例外ではない。本研究は国芳の水滸伝絵画を次の二点において明らかにしていきたい。

其の一。先行水滸伝絵画からの摂取。国芳が直接、間接的に摂取した中国の水滸伝絵画は『李卓吾先生批評忠義水滸伝』(容與堂刊1610)、『水滸葉子』(陳洪綬画1625)、『天?地?図』(陸謙画清初)の三種類を想定できる。特に『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』にある「神機軍師朱武」の絵の一枚は、『天?地?図』の「公孫勝」を描く絵からの摂取が著しい。また、江戸の先行絵画から摂取の場合は葛飾北斎だけではなく、鳥山石燕と北尾重政からの継承も看過することはできない。

其の二。魯智深の表現。「水滸伝」の中に登場する魯智深という人物は小説の精髄を背負う人物でもある。ところが、国芳が描いた魯智深は中国で描かれたそれとあまり関わっておらず、石燕から始まった江戸の魯智深を継承しながら、文化文政期によく見られる弁慶の顔を魯智深に使い、二人の人物を同じイメージとして描いていた。弁慶と魯智深の相似を表す絵はすでに北斎の作品に見られるが同じイメージではなかった。国芳の描き方は、江戸庶民の水滸伝受容の一側面を提示する意義を持っていると提案したい。


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3. 『諸道聴耳世間狙』巻一の一のモデル候補
  ―道修町の小西家・山本家―

明治大学(非)

宍戸 道子

『諸道聴耳世間狙』巻一の一には、薬種問屋の小西三十郎と浪人の山本勘六という人物が登場する。物語中、三十郎は唐薬取引の損失により家産を失い、一方で勘六は算学の手腕によって出世する。この二人のモデルや素材については、従来いくつかの指摘があるが、本発表では当時大坂道修町に居住した小西家・山本家の存在を指摘し、その候補の一つとしたい。

北船場の道修町は当時の薬種業の一大中心地であり、小西姓の薬種関連業者が多く居住していた。また同町三丁目の山本家(紙屋)は代々町年寄を務め、質屋・両替商・蔵元(蔵屋敷の出納管理)・掛屋(藩の公金出納管理)を営んでいた。

実在の小西家と山本家の間に諍いがあった明らかな記録は現在見出されていない。だが、「道修町文書」及び「道修町三丁目文書」の調査によれば、宝暦末頃から明和始めにかけて、道修町の小西家は経営上の打撃に見舞われた形跡がある。当時、同地の薬種業者には投機的な売買の損失で財産を失う者が多かったとされ、この経営不振にも同様の事情が推測しうる。

秋成と彼らの直接の交流を示す資料はないが、蒹葭堂や麻田剛立門下の天文学者等を通じてその交流圏は重なっており、秋成が道修町の情報に接することは十分に可能であった。以上の事柄から、秋成が当時の道修町の動向を本話の素材とした可能性を本発表では提示する。併せて、秋成が複数の素材をどのように物語として構成したかにも言及したい。


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4. 『鎌倉管領九代記』の歴史叙述
  ―『中古日本治乱記』との関連を中心に―

東京学芸大学

湯浅 佳子

『鎌倉管領九代記』(十二巻十二冊、寛文十二年刊)は、関東公方足利基氏から足利義氏までの九代にわたる歴史を記した作品である。本書については、これまで『北条記』(六巻本)・『鎌倉大草紙』等の室町軍記との関係や出版の経緯、また浅井了意作としての可能性が指摘されてきた。

『鎌倉管領九代記』は、『太平記』後半部および『中古日本治乱記』(写本、九十二巻九十二冊、慶長七年山中長俊序)の関東関連の記事を基本的な枠組みとし、さらに『太平記大全』『北条記』(六巻本)等にも見られる内容を加え、関東を中心とした歴史を記している。特に『中古日本治乱記』には『鎌倉管領九代記』と文章表現の類似する箇所が多くみられ、影響関係が考えられる。また『鎌倉管領九代記』では、上杉憲春・足利持氏・北条氏綱らについての政道批評や、京都将軍と関東公方および公方足利氏と管領上杉氏の反目により関東が混乱し北条氏が台頭する経緯が記されるが、それらも『中古日本治乱記』の言説をふまえたものである。

本発表では、近世初頭に編纂された歴史書の寛文・延宝期の軍書への影響という視点から、『中古日本治乱記』との関係を中心とした『鎌倉管領九代記』の歴史的記述の方法について考察する。また、『鎌倉北条九代記』『本朝将軍記』等浅井了意作とされる軍書・歴史書との比較をとおして、『鎌倉管領九代記』と了意との関わりについても言及したい。


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5.橘曙覧「独楽吟」の表現形式における漢詩受容の可能性
  ―邵雍「首尾吟」との関係をめぐって―

総合研究大学院大学(院)

王 暁瑞

橘曙覧の連作「独楽吟」は、すべてが初句を「楽しみは」と歌い出し、末句を「時」で結ぶという点は従来の和歌に見られない独特な表現形式とされる。

このような詠歌の形式について、これまでは、日本の韻文から影響を受けたとする説は主流を占めているようであるが、それ以外に、前川幸雄(「橘曙覧作「日本建国之吟」考」『福井大学教育地域科学部紀要』第五二号、二〇〇一年)により宋の邵雍の詩を典拠としているという中国の韻文に関連した指摘がある。これは注目すべき説ではあるが、氏はこれについて具体的な説明をしていないので、本発表では前川氏の指摘を踏まえつつ、邵雍の七律連作「首尾吟」を「独楽吟」と比較して考察を加えた。

具体的には、まず、「首尾吟」各首の首句が「堯夫非是愛吟詩」で、第二句の句尾が「…時」で統一されているというような定型は、初句を「楽しみは」で、末句を「時」で揃える「独楽吟」の形式と非常に相似している。そして、「首尾吟」に多く見られる、学問や生活、自然や四季万物に対する楽しみの表現は、「独楽吟」の主要な内容とよく響きあい、さらに、日常的な発想や軽妙な趣向においても共通するものが多く見られる。また、連作詠の体裁を用いて現実の生活における「実感」を強調するなどから、両者の共通点がうかがえる。

したがって、「独楽吟」の表現形式が形成される中には、「首尾吟」からの影響が存在する蓋然性が非常に高いと考えられる。


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6.菊池三渓『本朝虞初新誌』典拠考

立命館大学(院)

福井 辰彦

『本朝虞初新誌』(明治十六年〈一八八三〉、文玉圃吉川半七)は、菊池三渓(文政二年〈一八一九〉〜明治二十四年)が稗史巷説を元に書いた漢文小説二十四編を収める。すでに池澤一郎氏による注釈・解説(新日本古典文学大系明治編二『漢文小説集』、注釈は十二編の抄出)が備わり、典拠についても調査・考察がなされている。本発表では、池澤氏が詳しく取り上げなかった作品のいくつかについて、典拠との比較を行う。

池澤氏は、「木鼠長吉伝」について、講談「木鼠長吉」の漢訳であると推定した上で、三渓の作と完全に一致する講談速記本が存在しないことを指摘している。このように、『本朝虞初新誌』に収められた作品と、その典拠を比較してみると、両者の間に大きな異同が見られる場合が少なくない。

例えば、「離魂病」は、宮川春暉『北窓瑣談』に見える、ろくろ首の話を典拠とする。その前半は、典拠をかなり忠実に漢訳しているが、後半、ろくろ首が下女の喉笛を食い破り、何処かへ飛び去るという結末は、典拠にはないものである。

『本朝虞初新誌』の「凡例」には、「読者、試みに猜せよ、孰れか是れ実にして、孰れか是れ仮なるを。孰れか是れ根据にして、孰れか是れ演義なるかを。又是れ一の楽事ならん」とある。その言に従い、三渓の漢文小説における「仮」「演義」に注目し、その意味を考えてみる。


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7.俳論書としての『西鶴冥途物語』

大阪大学特任研究員

浜田 泰彦

洛下泡影序『西鶴冥途物語』(元禄十年五月刊)は、次のような内容の浮世草子作品である。俳諧興行の執筆を務める幻夢なる男が、元禄某年三月の初めに東山の花見に誘われ、その帰宅後不意に息を引き取り、冥途で西鶴と対面する。黄泉に赴いた幻夢は彼地での俳諧作法や、地獄案内を西鶴に受ける。続いて極楽に案内された幻夢は、気高い宗匠に定業の死ではないから急ぎ娑婆に戻るよう命ぜられ、さらに俳諧の正風体を尊重するよう訓戒を受け、蘇生する。

本作品は右梗概通り、西鶴の地獄巡りを題材とする都の錦『元禄太平記』(元禄十五年三月刊)に先行するものである。地獄における季語の作法等他愛のない趣向が散見する本作は、浮世草子作品としては「低級な作」(長谷川強氏『浮世草子の研究』)と評されるのも無理からぬところであるが、一方で、なまなかな知識を誇る宗匠、俳諧論難書作者の高慢等一貫して西鶴の口から当代俳諧への批判が加えられていることは注目されるべきである。さらに、作品の大詰で貞徳か立圃とおぼしき宗匠が幻夢に正風体を尊重せよと教導したのは、本作品の俳論書としての立場を端的に表明したものと推察される。泡影・幻夢とも未詳の人物であるが、吉田幸一氏は、かつて北条団水に同定したことがある(「西鶴冥途物語の考察」『西鶴研究』七、一九五四年)。いずれにせよ、作者は生前正風体を理想とした西鶴を踏襲せんとする志を有した人物であったと考えられる。


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8.四方赤良の狂歌判詞

法政大学

小林 ふみ子

天明狂歌の研究において、作品に即してその評価基準を考えることはあまり重視されてこなかった。狂歌集の注釈、唐衣橘洲や朱楽菅江らの遺した狂歌論についての研究はそれなりに備わるものの、作品を実際にどのような基準で評価したのかという点についてはあまり論じられてこなかった。そこには、長い間、天明狂歌の本質は作品ではなくそれらを生み出した場にこそあるとされてきたことが今日なお影を落としているのかも知れない。

しかし、天明狂歌師らが早くから歌の表現に真摯に向きあっていたことを示す資料が現れた。狂歌の大流行の要となった天明三年という年の狂歌合において、四方赤良こと南畝が表現を吟味した判詞を書き留めた写本である。歌合の形式を模すこと自体が戯れであったろうが、その内容は戯れというにとどまらず、題意をいかに的確に把握して、卑俗に陥ることなく現実感をもって表現しているかを丁寧に弁別し、一部には添削した跡も窺える。

本発表では、和歌や俳諧との関係にも触れつつ、やはり赤良判の「天明狂歌合」(天明五年)と併せて検討し、おかしみや趣向の面白さだけでなく、言葉の「つづき」等と表される言葉の調子が重視されていたことを指摘する。「めでたさ」の気分とともに、言葉の調子がもたらす独特の高揚感が天明狂歌の特質ではないかと見る発表者としては、その問題を考える上で不可欠の階梯と考える。


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9.『続落久保物語』と『よしはら物語』
  ―作者と成立について―

神戸大学(非)

天野 聡一

『続落久保物語』は、その名の通り『落窪物語』の続編として書かれた和文の作り物語である。上田秋成『胆大小心録』は、本作を懐徳堂の儒者五井蘭洲の作と伝える。

しかし、倉島節尚氏は本作の作者を未詳とされた(『古典文庫』解説)。氏によれば、現存する『続落久保物語』の内、作者名を記すのは『扶桑残葉集』所収本のみである。その『扶桑残葉集』は、『よしはら物語』、『続落久保物語』の順に収載し、それぞれの作者を「五井純禎字子祥」(蘭洲)、「同」と記す。ところが、『よしはら物語』には「明和四年」との記述があり、蘭洲没後の成立である。以上から、氏は『扶桑残葉集』の作者表記に信憑性がなく、『続落久保物語』の作者も未詳であるとされた。確かに、『よしはら物語』は蘭洲以外の作として考えるべきである。ただし、氏の説は『胆大小心録』を参照していない等、幾つかの問題点を残している。

さて、『よしはら物語』は、大坂の孝女きよの孝行譚を記したものであり、その作者は、当時積極的に孝子顕彰運動を展開していた中井竹山と考えられる。

また、『続落久保物語』の作者は、やはり蘭洲とすべきだろう。作中に書かれた日本古典文学に関する見識は、彼の注釈書の内容と対応する。加えて、作中には、竹山や加藤景範等、懐徳堂関係者による漢詩が取り入れられている。これらを内部徴証として勘案することにより、本作は宝暦七年以降の成立と考えることができる。


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10.『浮世風呂』における教訓

三重大学

吉丸 雄哉

近世小説において、教訓を笑いで包んで庶民教化に用いるのは、珍しいことではない。『浮世風呂』『浮世床』をはじめ、式亭三馬の滑稽本もおしなべて、教訓の要素を含む。しかし、女風呂を舞台とした『浮世風呂』二編三編は、「つら/\熟かんがみ監るに、銭湯ほどちかみち捷径のをしへ教諭なるはなし」から始まる『浮世風呂』前編と比べても、全体の構成に教訓が強く関与しているといえる。三馬滑稽本のほとんどが話題のひとつとして、教訓のある会話を描くのに対し、『浮世風呂』二編三編は教訓を主題として全体を構成する。女性を上品と下品の二つの階層にわけて、言葉遣いや外見を活写してその特性を露わにしている。お稽古事や寺子屋での勉学をしっかりすることで、よい奉公ができ、よい奉公からさらに教養を得ることで、よい結婚ができるといった、階層間の移動が努力により可能であることを教諭するのが目的といえる。登場人物の発話のなかに『女今川』『女大学』といった女訓書に書かれているような教戒の要素が含まれるが、より世間的な知恵を加えて、単に女訓書を読むのに比べて、かなり受け容れやすくしたのが特徴である。このように三馬が『浮世風呂』二編三編の中心に教訓を据えたのは、婦女子が読むものは、教訓的でなければならないと三馬が考えていたためであろう。浮世草子の気質物の教訓性に三馬は着目して『世間娘気質』を合巻に流用しているが、それは同様の姿勢に基づくといえる。


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11.『西鶴諸国ばなし』「大晦日はあはぬ算用」の挿絵に込められた作意

名古屋大学(院)

堅田 陽子

「大晦日はあはぬ算用」は、一両が紛失する事件を通して、金銭や命よりも名誉を重んじる浪人の姿を描いている。その一方で、話の前半では、主人公である原田内助について自堕落で身勝手な人物像が強調されており、後半に見られる高潔な振る舞いは、全体の流れにおいて唐突である。一両紛失に慌てふためく浪人たちの姿は滑稽でもあり、一話を通して西鶴が描こうとした人間像とは何であったのか、疑問が残る。

西鶴の作意を知る手がかりは、挿絵にある。そこに描かれる内助の家の造りは豪華で、貧しい浪人の家とは思えない。本文にはその家について、「くづれ次第の柴の戸」などとある。特に渡り廊下を渡る内助の妻の図に注目したい。挿絵が本文と矛盾するものとなったのは、妻の姿が『伊勢物語』版本に見られる歌人伊勢の図を踏襲しているためである。

伊勢については、その「飛鳥川淵にもあらぬ我が宿も瀬にかはりゆくものにぞありける」(『古今集』巻十八)の歌から、零落に負けない高潔な精神性を持つ人物としてのイメージが、近世期には形成されていた。その傾向は『古今集』古注釈だけでなく、俳諧や浮世草子などにも見出すことができる。内助らと伊勢との接点はここにあった。挿絵には、内助の人間性に伊勢を重ねようとする、作者の肯定的な評価が込められていると考えられる。


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12.飾りとしての文学
  ―徳川家光肖像画における文学の可視化―

国文学研究資料館

入口 敦志

輪王寺に所蔵される徳川家光像は、少し変わった肖像画である。榊原悟氏は「社殿内、上畳に座す姿で描かれている。社殿奥に宮殿が、また前方長押には鷹の絵や三十六歌仙の額が掛かっており、東照宮を祀る社殿内を想定しているのかも知れない」(『葵 徳川三代展』図録解説)と端的に指摘する。

この家光像が変わっているのは、一つは、背後に厨子が描かれていること、もう一つは、軒の下に扁額が描き込まれていることである。事実、日光東照宮には、家光らによって鷹と三十六歌仙の扁額が奉納されており、それを描き込んだことは間違いないであろう。武家にとって鷹が重要な意味を持つことはいうまでもない。例えば長谷川等伯筆「武田信玄像」(高野山成慶院)に描き込まれた鷹は、像主が武家であることを象徴するものであった。では、歌仙絵は武家にとって鷹と同じ程度の意味を持っていたのだろうか。

東照宮に祀られる家康は、「詩歌などの末枝は。元より御好もおはしまさねば。殊さらに作り出給ふべくもあらず」(『東照宮御実紀』)とされるように、和歌などには距離を置いていた。その東照宮にわざわざ歌仙絵を奉納し、さらには画中に描き込むにはそれ相応の意味があったと考えなければならない。本発表では、この肖像画の考察をとおして、歌仙絵扁額奉納の意味や家光の文学活動について考察してみたい。


(C)日本近世文学会