平成24年度秋季大会シンポジウム要旨

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1. 山本北山の諸芸論 ― 天明・寛政期の序文群を中心に ―

東京大学(院)

山本 嘉孝

安永・天明年間に『作文志?』と『作詩志?』の刊行をもって?園派の古文辞説を排撃し、当時の文芸界に大きく名を馳せた山本北山は、一貫して経世家を自任し、作文作詩を瑣末な余技として捉えていた人物であった。では、北山にとって、詩文を枝葉の営為として位置づけることの必然性は何であったのか。

この問いへの回答は、より広範囲な技芸に対する北山の姿勢を検証することにより試みることが可能と考えられる。北山は、詩文論に加え、多岐にわたる諸芸に関する著述をも残しており、管見の限り、天明より文化年間にかけて、挿花、茶道、囲碁、将棋、医学、刀剣考証学、書画、俳諧の入門書や指導書等に、漢文の他序十七篇を寄せている。それらの序文は各芸に関する議論を内包しており、外部の要請に応じての執筆ではあるが、相互に共通する問題意識を提示する。北山が特に問題とするのは、自身の本業である経世済民と、詩文と同じく末端の営為である諸芸が、如何にして関連づけられ、更には両立されるべきか、という点である。中でも、学芸の隆盛に伴って生じた流派の乱立や、流派内部の無統制は、国情全般に通じる弊害として北山の経世思考と呼応するものであった。本発表では、北山の諸芸論の根幹を形成すると考えられる、天明・寛政期に著わされた諸芸に関する序文群と、北山による献策書『十策』(天明七年写)に見られる諸芸と風俗についての記述を手掛かりとし、折衷学派による文芸への関与のあり方の一端を明らかにすることを目的とする。


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2. 『唐詩選』通俗化の諸相

久留米大学

大庭 卓也

わが国における『唐詩選』の受容史について、先学により大まかな見取り図は示されているが、充分な検討が加えられぬ問題、あるいは未検討の問題も依然として残されている。

享保九年、服部南郭校訂本(江戸、嵩山房小林新兵衛刊)を初版とする本書和刻本の改版状況などもその一例であり、私は先に、幕末までに七十余種の版が行われていたことを報告した(「和刻『唐詩選』の盛況」、『東アジア海域叢書』第十三巻所収、汲古書院、平成二十四年)。これら改版の状況は、一言でいえば通俗化の道程であったと考える。本発表ではまず、その後知ることができた数種の版を補いながら、この点を確認する。特に天保期以降、嵩山房以外の書肆により、利益を優先した粗悪な通俗版(卑俗な版とも言えようか)が多く現れていた点を指摘する。

次に、こうした趨勢のなか、嵩山房が『唐詩選』の国字解類や注釈書類を多く刊行して、本書の通俗化をはかっていたことは従来知られる通りだが、『唐詩選画本』(初編は天明八年刊)を発展させて「唐詩選詩かるた」のような遊戯の具まで創り出していた点を、成立の経緯なども具体的に触れながら述べる。

更に、以上のような通俗化の方向性は、明治期における本書の出版にも持続展開されていった点に言及することで、『唐詩選』の受容史に再検討を加えておきたい。


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3. 近世読書と破損行為
  ─貸本における落書き、戯画、顔面の擦り消しを中心に

名古屋大学

デイラン・ミギー

言論統制下の江戸社会においては、貸本は、ただ読まれるだけではなく、読者の間での百花繚乱なるディスクール・サイトとなっていた。貸本に、書物に対する批評や、地口、戯画、社会の風潮に対する風刺や嘲り、貸本屋そのものに対する愚痴、などを書き込むことは、貸本屋によって損料の対象になりうるものの、きわめてよく見られた現象である。

本発表では、2000点以上の近世和本調査の成果を踏まえて、貸本(特に八文字屋本と江戸読本)に頻出する落書き、戯画、登場人物の顔面の擦り消しという三種類の書き込みに焦点をあて、近世読書と読者による破損行為の関係について考察する。具体的には、全国各地の市場で流通されたとおぼしい「梅若丸一代記」、「桜姫全伝曙草紙」、「太平百物語」などに対する書き込みを紹介しつつ、松若丸を誘拐する天狗に対する態度等を比較検討していく。こうした例を通して、落書きなどの書物破損行為が近世文学受容共同体の形成に如何なる役割を果たしたかについて考察を進め、近世文学享受とメディアの関係を巡って、「作品」ではなく「書物」中心の文学受容史の可能性を追求する。


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4. 津久井尚重『南朝編年記略』における『大日本史』受容

大阪大学

勢田道生

後醍醐天皇の治世から長禄二年の南朝皇胤の滅亡までを対象とする史書『南朝編年記略』(写本三冊、天明五年自序)は、大和芝村藩に仕えた有職学者・津久井尚重の著作である。馬琴によって「かくまで穿さく行とゞきて正しきものなし」と賞賛される同書については、藤貞幹の偽作とされる『南朝公卿補任』や、柳原紀光『続史愚抄』と共通する特異な記事があることが指摘されており、近世中期における南朝史受容を考えるうえで、注目すべきものである。

本発表で注目するのは、同書が『大日本史』を利用していることである。『大日本史』は、文化三年以後順次刊行される以前には稀覯書と見なされていたとされるが、写本として懐徳堂本など天明期以前のものも存すること、また、写本の系統には「正徳本」と「享保進献本」との二系統があることが指摘されている。よって、管見に触れた伝本により、『大日本史』写本の流通状況を確認するとともに、尚重の依拠した『大日本史』の系統を確定し、以上を踏まえ、尚重の『南朝編年記略』編纂の特徴として、皇位の正統性や神器の所在への関心が薄く、理念において極めて保守的な態度が認められることを指摘する。

尚重は宝暦〜天明の頃に京都に在住し、速水房常や多田義俊、高橋宗直らに師事している。このような学統に列なる尚重の著述の特徴を明らかにすることにより、近世中期上方における有職学の意義を明らかにする手がかりが得られると考える。


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5. 享保期教訓本作者考 ―岩田彦助のこと―

九州大学

川平敏文

 『田舎荘子』の著者・佚斎樗山の作かと疑われているものに、『従好談』(享保十四年刊)がある。内容は五倫五常、学派学術など儒学の内容を平易に説く仮名教訓本で、樗山の一部の著作と類似する。また内題下の署名「古希翁」から推測される年齢、跋文筆者の共通性などを考え合わせると、樗山作者説も頷ける。ただし中野三敏氏は、「割印帳」には本書の作者が「岩田彦助」とされていること、またその書きぶりが樗山の筆法とやや異なることを挙げ、断定は避けておられる。

結論から先に言えば、古希翁(岩田彦助)は、樗山とはまったくの別人である。岩田彦助はもと阿波藩士。故あって浪人し、三十歳のころ江戸に出て、木下順庵の門に入り、新井白石・室鳩巣らと交わる。また山鹿素行にも教えを受けた。元禄二年、譜代大名・秋元家に仕官して異例の出世を遂げ、蕉風俳人としても知られる高山繁文(号びじ麋塒)と共に、家老として藩経営の要となる。享保十九年五月十八日、七十七歳で死去。

このように、樗山とは別人だと判明したわけであるが、しかし両者の類似という点にも、改めて注意が必要であろう。そこには享保期教訓本作者としての、類型性のようなものが認められないだろうか。これも『従好談』筆者と同一人物の作かと疑われている『田舎小学』(享保十年刊)も調査対象に入れつつ、そのことについて考えてみたい。


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6. 江戸版長唄正本の版行上の特徴について
  ―書誌調査と諸本の比較作業をもとにして―

総合研究大学院大学(院)

漆普@まり

江戸歌舞伎の劇場出版物には番附のほかに、せりふ正本・音曲正本がある。せりふ正本・音曲正本は共通の共表紙の体裁をとり、三〜五丁程度の本文からなるため「薄物」とも総称されてきた。そのなかでも、長唄正本は享保期後半から明治期に至るまで継続して版行されており、地本問屋仲間の行事による新本改めの対象とはならなかったが、地本における出版権の有り様や株板化の動向を考察しうる資料群である。

長唄正本は、座に属する囃子方が担当した所作場の音曲の詞章に、上演情報を添えて刊行したものと捉えることができる。したがって、長唄を中心としつつも大薩摩節や、初期には説経・祭文などをも含んでいる。役者・囃子方による新作のせりふや音曲は座と専属関係にある版元から出されたため、音曲正本でありながら座元の権限が強く反映した出版物となっている。

たとえば中村座の場合、当初は鱗形屋・中嶋屋・伊賀屋から出ているが、宝暦十二年頃からは村山源兵衛がその版行を独占するようになる。一方、これに並行して偽版も版行されたりするのだが、村山は安永六年十一月から偽版の版元と相版を組むようになる。さらに、天明七年からは専属版元が沢村屋利兵衛に代わり、「沢村蔵板」と刻して再版を出すかたちに版行形態が変化する。本発表では、吉野雪子氏論文「長唄正本とその版元」(二〇〇五年)の成果をもふまえて、このような長唄正本の版行上の変化を具体的に検討し、三座の特徴について報告したい。


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7. 狂言作者著述と劇界知識の普及
  ――西沢一鳳『伝奇作書』を中心に――

東京大学(院)

日置 貴之

近世の歌舞伎狂言作者の著述の多くは写本によって伝わり、『演劇文庫』等、近代の叢書類に翻刻され、今日では資料として活用されている。幕末期大坂の歌舞伎・浄瑠璃作者西沢一鳳の随筆である『伝奇作書』(全七編、天保十四年〜嘉永四年成立)もそうした著述の一つであり、今日の残存状況から、特に幅広く享受された一書であることが窺える。本発表では、『伝奇作書』諸本の調査を通じて以下のことがらを考察する。第一に、本書の書写、伝存過程。第二に、本書を所蔵、享受した人々の素性。第三に、明治期に入って活字媒体が普及を見せる状況下での本書の受容の様相である。

そして、後代の歌舞伎作者たちが本書を一種の参考書としていたと思しきこと、本書が作者のみならず、その周囲の好事家等にも所有されていたこと、明治末の全編翻刻(『新群書類従』)以前に、活版印刷物の中で本書の内容の利用が見られ、そこには当時の狂言作者の関与が窺えることなどを明らかにする。

また、同じ幕末期の作者であり多くの著述を残した三升屋二三治の著作の内容や諸本の伝存状況との比較から、狂言作者が持つ知識の公開に目的を置く点に一鳳の著述の特色を見出せること、両者の著述の質的相違には、幕末期の上方と江戸の狂言作者の置かれた状況の違いが反映されていることを指摘したい。


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8. 荒木田麗女と本居宣長
  ―『野中の清水』論争をめぐって―

関西学院大学(院)

雲岡 梓

荒木田麗女は安永六〜九年頃、本居宣長と論争を行った。こ
の論争は麗女の擬古物語『野中の清水』に宣長が批評を加えたことを発端とし、二人の間では再三にわたる難陳が行われたらしい。しかし、それらの書物は所在不明となり、具体的な二人の遣り取りについては不明であった。そのため先行研究では、この論争は大家宣長の添削に、麗女が素直に従わなかったに過ぎないと解され、対等な論争であるとみなされていなかった。そして、『野中の清水』自体が麗女の物語の中でさほど評価の高い作品でもないため、本論争についての注目度も低かった。

ところが、現在所在不明の宣長の批評に対する麗女の反論文、『本居宣長慶徳麗女難陳』が、昭和三十八年に石村雍子氏によって翻刻されていたことが判明した。それは私家版として謄写本の形で印刷され、国立国会図書館に所蔵される。本書には両者の生々しい言い争いが記録されるが、麗女の反論を受け、宣長が「我あやまてり」と誤りを認める場面もあり、従来の対等な論争ではないとの解釈は誤りであるといえる。本書によって、『野中の清水』論争の経緯や具体的な論争内容を明らかにする。

また、麗女はこの論争で宣長を「田舎のえせ書生」などと罵倒したことにより、身の程知らずであるとの批判を浴びた。清水浜臣は「此嫗いと思ひあがれる本性にて、人のいさめに従ふことを為さず」と述べる。しかし宣長との論争で麗女の知名度は向上し、文学者として認知されるようになったのである。


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9. 幕末における歌語「神風」変容の内実
  ―幕末国学者の歌作一斑―

日本学術振興会特別研究員

吉良 史明

石川雅望集『雅言集覧』(文政九年刊)に「いせといはん枕詞也」と記載されるごとく、歌語「神風」は上代より近世後期に至るまで伊勢また伊勢神宮にゆかりのある五十鈴川・御裳濯川等に掛かる枕詞として詠まれてきた。一方、幕末において、同語は神に仇するものを吹き滅ぼす神威の意として詠まれたこともまた、周知の事実である。しかしながら、戦前の神国思想を彷彿とさせる言葉として長らく忌避されてきたゆえか、かく歌語「神風」が変容したことの内実は、いまだ明示されていない。古歌を典範として歌作を試みる国学者が如何にして古来よりの詠み様を変質させ得たものか、詳細な検討が求められる。

そこで、本発表はその変容に際して当代の国学者に多大な影響を及ぼしたと思しきなかしまひろたり中島広足〈寛政四年(一七九二)生―文久四年(一八六四)没〉の詠歌に着目して、考察を加えてゆく。まず始めに、広足詠『橿園長歌集』(天保十年序刊 一冊)所載の「見蒙古襲来絵巻作歌」において、広足が「大御神たち おもほてり いきどほらして 神風の いぶきまどはし 天雲の 五百重むら雲 とこやみに おほひたまひて えみしらが のれる千船を 木の葉なす いぶきはなちて云々」と神威の意に詠じていた事実を確認する。次に、題とされた『蒙古襲来絵詞』をめぐる広足の文事を検討し、同歌との関連を示す。終わりに、歌語「神風」に対する近世後期から末期にかけての国学者の解釈を検討し、文政年間を境に枕詞としての認識から神威の象徴とみなされるに及んだことを明らかにする。

以上の三点の考察を通じて、歌語「神風」が幕末国学者の間において神威の意に詠じられたことの内実を解明したい。


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10. 京伝と三馬――合巻における趣向の相互利用――

大阪大学(院)

有澤知世

合巻における趣向の変容を、京伝と三馬の相互利用に注目して論じる。従来三馬は京伝の追随者であるとされるが、影響関係の指摘は黄表紙や滑稽本が中心であり、合巻の趣向に関するものは本田康雄氏、棚橋正博氏、吉丸雄哉氏による六例にとどまる。しかし影響関係は従来の指摘以外にも多数認められ、中には京伝が三馬作品を利用している例、さらには相互に趣向を利用し合っている例も見出される。

今回はその中で、京伝読本『梅花氷裂』(文化四年刊)における「怨念によって腹が膨らむ奇病」の趣向が、三馬合巻『蟒蛇於長嫐草紙』(文化五年刊)で「怨念によってあらわれた腹の人面疔」として利用され、さらに京伝合巻『松梅竹取談』(文化六年刊)で「幻術で出現させた腹の人面瘡」として再利用されたケースと、三馬『蟒蛇於長嫐草紙』における「字の書けない女が、書置きをのこすかわりに、遺言を子どもに暗記させる」趣向が、京伝合巻『暁傘時雨古手屋』(文化八年刊)で「書置きの内容を、玩具で判じ物を作って子どもに覚えさせる」趣向として利用され、さらに三馬合巻『万字屋玉桐とうらうの番付』(文化十一年刊)で再利用されたケースを具体的に検討する。これらのケースでは、利用を行う毎に工夫が加えられ、新たな趣向へと変容している。京伝と三馬の影響関係は一方的なものでなく、相互に影響を与え合う関係であったといえる。


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11. 山東京伝『通俗大聖伝』における「徳」と「聖」

明治大学(院)

伊與田 麻里江

山東京伝『画図通俗大聖伝』(以下『大聖伝』)が、『史記評林』「孔子世家」を種本とし、『春秋左氏伝』、『孔子家語』等によって増補された翻案作品であることは既に指摘されている。しかし『大聖伝』の内容に踏み込んだ考察は、未だ十分ではない。そこで本発表では「徳」「聖」の二語を手がかりとして『大聖伝』を再検討し、京伝の読本創作法に言及する。

当該作品を諸典拠と比較すると、その翻案の過程の中で、典拠の「徳」「聖」の語が一例を除き全て取り入れられている。また典拠に当該二語が見当たらない箇所にも新たな挿入があることが認められる。さらにこの二語は〈巻之一〉においては孔子を形容するために挿入されるにすぎないが、〈巻之二〉以降は「聖徳なる故に濁にありてもけがれ?ずと曰ふことなり」のような、典拠には見いだせない具体的記述を以て描かれる。これらを踏まえ、馬琴に「四書の語句の類は、半句も記誦することなし」(『伊波伝毛乃記』)と評された京伝が『大聖伝』において「徳」「聖」観を明確に持っていたことを提示するとともに、〈巻之一〉から〈巻之二〉への、それらの推移をも指摘したいと考える。

このような検証から、「辺鄙の幼童」に「先子の明徳の広大なるを知らしめんと欲」(『大聖伝』自跋)したという京伝の読本創作における営為が確認され、「孔子世家」を読本化する意義を那辺に見たかということが明らかになるであろう。


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12. 光丘文庫蔵『物種真考記』をめぐって
  ─「物くさ太郎もの」の中から

上智大学(院)

網野可苗

お伽草子『物くさ太郎』は今日に至るまで、昔話や子どもの絵本として親しまれているが、特に近世期には主人公・物くさ太郎が他の作品に登場する例がしばしば見られる。本発表では、そのような『物くさ太郎』の享受作品(「物くさ太郎もの」)の中から、近世後期に書かれたとおぼしき未翻刻の写本『物種真考記』(酒田市立図書館光丘文庫蔵)をとりあげる。本作は国書総目録で読本とされているが、関ヶ原合戦の場面を持ち、作中に徳川忠輝・秀康、福嶋正利等が登場するなど、極めて実録的性格が強いと考えられる作品である。

また、「物くさ太郎もの」を考える上で重要な「物くさ」から「まめ」への転換について、新たな解釈を施し、作品に取り入れている点にも本作の特徴がある。すなわち、主人公・物種太郎利休は、幼い頃より柔弱でわがままに育てられたため愚か者となるが、母の自害によって「日比のあほうたちまちさめ」たと描く点である。

物くさ太郎は近世的な物語形成の流れに順応するように姿を変え、様々な作品に現れるようになる。本作の位置を考えながら、そういった「物くさ太郎もの」の全体像も捉えていきたい。


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13. 馬琴の自作批評
  ―石水博物館蔵『著作堂旧作略自評摘要』―

同志社大学

神谷 勝広

天保十五年(一八四四)、曲亭馬琴は、老齢(七十八歳)・失明状態の中、自作読本を批評し、嫁お路に代筆させまとめていた。そのことは当時の馬琴書翰から推測できるが、お路代筆本の行方がわからず、したがって、その具体的内容は不明であった。このたび、お路代筆本を松坂の小津桂窓(馬琴の知友)の元で筆写した本(『著作堂旧作略自評摘要』)が、せきすい石水博物館(三重県津市)で発見できた。

批評対象作は、三四十年以前(文化期)刊行の『月氷奇縁』『石言遺響』『稚枝鳩』『四天王剿盗異録』『勧善常世物語』『三国一夜物語』『墨田川梅柳新書』『新累解脱物語』『標注園の雪』『括頭巾縮緬紙衣』『雲妙間雨夜月』『頼豪阿闍梨怪鼠伝』『俊寛僧都嶋物語』『旬殿実実記』『青砥藤綱摸稜案』『糸桜春蝶奇縁』『美濃旧衣八丈綺談』『皿皿郷談』の十八作である。この自評により、馬琴は自作のどこが良くどこが悪いと考えていたのか、三四十年を経て見方がどう変わったのか、史実・演劇との関わりをどう意識していたのか、出版に際しどのようなトラブルがあったのか、稗史七則のうち主格を除く伏線・襯染・照応・反対・省筆・隠微は具体的にどの部分のことか、など多くの新見がえられる。

今回は、石水博物館蔵『著作堂旧作略自評摘要』の概略を確認した上で、『頼豪阿闍梨怪鼠伝』『月氷奇縁』の事例を取り上げて説明する。


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(C)日本近世文学会