平成15年度秋季大会発表要旨

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1. 勘三郎座と川村十兵衛

総合研究大学院大学(院)

中島次郎

『一話一言』巻之八所収「古来侠者姓名小伝」は、二百名ほどの男だての名と、ごく簡単な事跡を記したものである。うち「川村十兵衛」伝のみ異例の長文で、勘三郎座が詐欺に遭った顛末を伝える。

すなわち、大坂の九郎右衛門座の手代川村十兵衛が江戸の勘三郎座に合併をもちかけ、勘三郎座では又九郎・川原崎権之助との 契約を切って大坂の役者を待ったが一向によこさず、大坂での借金の整理のためとて千両余も送金させられた挙句、作弥九兵衛・小舞・多門・弥五九郎ら奴系の役者ばかりを下してきた。勘三郎はこのため家を売る羽目に陥ったが、大坂と江戸とのことなので訴訟も出来なかった、と。

従来、この記事の信憑性は低いとされているが、『松平大和守日記』によれば、寛文八年(一六六八)十二月に作弥九兵衛ら四人が江戸で勘三郎の弟と共演しており、このうち小舞庄左衛門・多門庄左衛門は、勘三郎の弟とともに同年七月の播州龍野に於ける大坂九郎右衛門座の興業「立野狂言尽し」に出演している。また、坂東又九郎・川原崎権之助が勘三郎座に出演していた事実は、歌謡正本『かうしんの御本地」に見えている。

川村十兵衛伝は、混沌としてつかみがたい寛文年間の劇界の状況を窺わせる資料として位置づけられるもののようである。本発表では、川村十兵衛伝の読解をもとに、位置づけの定まらなかった右の既紹介資料と照合しつつ、寛文八年頃の劇界について考察したい。


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2. 景物本考

中央大学(院)

浅埜晴子

寛政頃から江戸末期にかけて、商品に添えるおまけとして客に配られていた草双紙類がある。これらは、現在景物本の名称で呼ばれている。私見の限りでは、わずか二十点ほどの作品が確認できるだけであり、景物本について言及した同時代の資料も今のところ見当たらない。先行の研究においても、広告文化の一端として若干触れられてはいるものの、景物本を網羅的にとらえた研究は僅少であり、今まであまり顧みられることがなかった。

確認した景物本は、一点を除いて全て草双紙の体裁である。しかし、その例外の一点についても、噺本の内容を持ちながらも体裁は極めて草双紙に近い。これには、草双紙が広告の適正を備えたものであったことが大きく関係していると思われる。油見世の景物本が非常に多いのも、草双紙の読者層を想定してのものだろう。景物本からうかがえる広告と戯作の密接な関係は、引札に代表される広告媒体からも読みとれる。戯作者による戯文調の引札は文化文政期に盛んに作られ、黄表紙などの趣向としてもしばしば利用された。当時においては、広告を戯作の趣向にして興じる風潮が少なからずあったのではないだろうか。また、それを受け入れる文化が江戸で育っていたからこそ、景物本も成立し得たと考えられる。本発表では、従来曖昧であった景物本の実態を明らかにするとともに、当時の広告と文芸との関わりについても考察したい。


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3. 『ぬれほとけ』の「心鏡」

広島大学(院)

松浦恵子

従来、『ぬれほとけ』については二つの見方が提示されてきた。遊里通いの手引書であるという立場と、三教一致の教訓書という立場である。しかし作品分析の過程は明らかにされておらず、どちらの見方に従うべきかという判断を下しかねる状況である。教義問答の詳細な検討により作品の根底にある思想を解明する事が求められよう。本文には、「狂句」として下巻に収録される九十八首の道歌と教義内容を対照すべきことが示されており、これらも重要な検討材料として扱うべきだと思われる。

今回の発表では、平金と吉野の問答という本作品の枠組みを支える教訓の内容を明らかにし、遊女である吉野が教義を説く人物として設定されている理由を考察する。平金に修行の必要を説く吉野が自身の修行について語る際、「心鏡」の語を用いていることに着目し、道歌・本文における用例の検討を通して、この語が意味する具体的な心の状態を示す。そして、「心鏡」を保つことを前提に身の穢れが容認されていることと、大心学者の教訓を退けた平金が吉野の教えには従ったことから、本作品においては心を清く保つことが重視されていることを確認する。人物設定の理由は、これらの検討の結果から明らかにすることができる。

さらに、「心鏡」の用例を寛文十一年前後の法語や儒書に求め、この語の思想的背景を探る。


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4. 初期浮世草子の江戸下し本
  ― 新出西村本『好色日用食性』『好色春の曙』をめぐって ―

早稲田大学

中嶋隆

上方の小説類で、広範な江戸読者を獲得し、江戸市場にインパクトを与えたのは、西鶴の『好色一代男』『諸艶大鑑』であった。一方、貞享四年ころから、大本型の西鶴好色物とは異なる、枕絵風な挿画を添えた、各冊十丁程度の半紙本型好色本が、大量に上方で生産された。その版元の一人が、西村市郎右衛門である。

さて、伝存未詳の西村刊好色本二部が、早稲田大学中央図書館に収蔵された。『好色日用食性』(元禄5以前刊)と『好色春の曙』(元禄6刊)である。後者の刊記には「西村半兵衛店」「書林西村市郎右衛門〈新/刊〉」とあって、版元は京都書肆西村なのだが、前者の刊記では「西村市郎右衛門店」「西村半兵衛板行之」と、江戸書肆西村半兵衛の方が版元となっている。同様な例は『好色ひゐなかた』(元禄3刊)にもみられる。この江戸版『好色日用食性』を検討するに、通例の江戸版とは異なり、絵・版下筆跡・紙質等、上方版の好色本と変わるところがない。私は、版元は半兵衛だが、実際に本を製作したのは、京都の市郎右衛門で、『好色ひゐなかた』『好色日用食性』は、京都から江戸に下されたものと推測する。この推定が可能なら、上方版半紙本型好色本に対する大きな需要が江戸に存在したことになる。

本発表では、上方の初期浮世草子出版における江戸市場の重要性について、言及したい。


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5. 寛政期の大田南畝と狂歌

日本学術振興会特別研究員

小林ふみ子

大田南畝は、寛政の改革政治が始まった天明七年を最後に江戸狂歌壇を退いて以後、蜀山人と名のり始める享和年間まで狂歌を作らなかったと一般に認識されている。寛政期にも、版下の筆跡から南畝作と推定される狂歌等も含め、いくつかの狂歌集への入集が知られているが、そのほとんどが和歌風の詠であることもあってか、大方の関心を集めてはいない。しかし、南畝の生涯にわたる様々な文学活動における狂歌の位置を考察するには、そうした時期をこそ検討することが必要であろう。

本発表では、あらたに、寛政頃と推定される窪俊満画の狂歌摺物(一枚刷)二枚に見える「よみ人しらず」の詠が南畝の作か否かを、状況や筆跡等の点から検証し、さらに従来知られている資料をも併せて考察することによって寛政期の南畝の狂歌壇との微妙な距離を見定める。この頃の南畝が狂歌らしい狂歌を詠むことを避ける一方で、狂歌壇との繋がりを完全に断ってはいない様子が、以前より断片的に観察されてきたが、現在把握し得るすべての資料によってそれを具体的に跡付ける。天明の狂歌熱から醒めた後、改革の粛正の気が漂う中で、大衆化した狂歌壇からは距離を置きつつも、限られた知友との社交の具の一つとして狂歌を詠ずる、またそれを求められる南畝の姿が見出せよう。それは、一定の距離は保ちつつも、蜀山人として斯界の大御所となった文化期の南畝の狂歌壇に対する姿勢を準備したものであったはずである。


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6. 『狂歌波津加蛭子』考
  ― 石川雅望の狂歌活動再開を巡って ―

束京都立大学(院)

牧野悟資

『狂歌波津加蛭子』(文化九年刊)は、石川雅望が判者を務めたある年の月並の高点集を月順にほぼそのまま二冊にまとめた狂歌集である。その序跋には、古典研究に打ち込んでいた石川雅望が笹丸・恒成という二人の武士や「合羽坂の人々」の要請により月並の判者として狂歌活動を再開させた旨が記されている。

この月並が行われた年次に関しては、伝存しない原題本『狂歌毎月集』の刊年に関する『狂歌書目集成』の記事を誤解した『国書総目録』の記述が踏襲され、寛政十二年という説が定説化されてしまっている。

本発表では、本書の序跋や入集者を、狂歌本を中心とした関連資料を踏まえて再検討し、この月並が催されたのは定説の寛政十二年よりも五、六年遅い文化二、三年であることを導き出す。また石川雅望を月並の判者として要請した人々は、唐衣橘洲と関わりの深い市ケ谷尾張藩上屋敷の関係者であり、この背景には、雅望の息子の養子先である中村屋の尾張藩厩御用という家業との繋がりがあったことと、享和二年の橘洲没後以降、その一門と雅望が狂歌活動に絡んで深い関わりをもっていたことを明らかにする。


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7. 浪華一九の『花競二巻噺』について
  ― 笑話本作品としての考察 ―

日本大学(非)

宮尾與男

文化十一年に「浪華/一九老人/谷十丸」の編纂で出版された『花競二巻噺』は、角書に「璃寛/芝翫」とあるように、二世嵐吉三郎(初代嵐橘三郎。俳名、璃寛、李冠)と、三世中村歌右衛門(俳名、芝翫)を題材にした笑話本作品である。ところが笑話本よりも璃寛、芝翫を知る演劇資料として紹介されることが多い。だが『上方芸文叢刊 4 上方役者一代記集』解題での本書を「十返舎一九の咄本とみてよかろう」という記述の誤謬や、『許多脚色帖』にみる「花競二巻噺抜書」に『花競二巻噺』にはない笑話のあることを演劇研究から指摘することもその追究もみられない。それは笑話本作品は笑話本研究に委ねるという判断がはたらいているからであろうか。

編者の一九は十返舎一九ではなく浪華一九のことである。一九は「上方咄の会」同人として寛政咄の会から活躍し、文化咄の会の「画咄の会」では、その中心的な役割をはたしている。またいくつもの笑話本作品を著したが、『噺本大系』にも所収されなかった文化十一年の『故事附古新話』には、『花競二巻噺』にみられない芝翫、璃寛の笑話と挿絵を収めている。こうした笑話を含めた別本の『花競二巻噺』が、出版以前に存在したと想定すると、「花競二巻噺抜書」の謎も解けてこよう。笑話本作品としての考察から、こうした問題を明らかにしたい。


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8. 泰里の上洛
  ― 点茶から煎茶へ ―

関西大学

藤田真一

明和六年(一七六九)冬十月、江戸からひとりの俳人が京にやってきた。名を橋本泰里といい、存義門下にあった。のちに存義二世となるが、このときはまださしたる俳歴もなく、三十にも届かぬ歳格好だった。江戸出立は、相応の覚悟を秘めたものだったらしい。五条界隈に卜居し、「五畳庵」と命名した。

そんな人物が、入洛二カ月にして一冊の俳書を上梓してしまった。名づけて『五畳敷』といい、小冊ながら、蕪村・太祇・嘯山などの入集をみる、充実した撰集であった。在京浅い異邦の俳人が、短時日にこれほどの撰集を可能にするには、それなりの理由があったにちがいない。師存義の後ろ楯もあったようだが、それ以上に注目されるのは、京の俳人との親交ぶりである。その交流の媒となったのは、茶の湯だったらしい。

泰里のこの『五畳敷』を精読することによって、以上のような事情が浮かび上がってくる。これを闡明することが、本発表の第一の目標である。

翌年夏、泰里は五条の庵を引き払って、四条上ル鴨川付近に転宅する。庵名を「五席庵」という。その転居の際、蕪村は一軸の画賛を贈った。それによると、転居を思い立った庵主の動機が見えてくる。こんども茶道がらみなのだが、抹茶ではなく、煎茶の介在が推測される。泰里の趣味が、点茶から煎茶へと転じたらしい。それは、当時の京文壇の縮図でもあった。こうした背景を明らかにすることが、第二の目標である。


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9. 幕末の歌集と教化
  ― 『明倫歌集』の編纂過程について ―

東京大学(院)

青山英正

『明倫歌集』は天保から文久にかけて水戸藩で編纂され、文久二年に藩校弘道館と支藩宍戸藩の藩校修徳館の蔵版として出版された。記紀万葉から同時代に至る歌から「打聴く入の教」となる約千二百首を収集し、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友・神祇・国体・文・武・拾遺の十巻五冊に配列したものである。発案者は九代目藩主徳川斉昭であり、藤田東湖・吉田令世との協議を経た後、吉田の他、鶴峯戊申・西野宣明・前田夏蔭といった江戸在住の国学者が編纂の実務に携わった。

この歌集は二つの面から捉えることが出来る。一つは『大日本史』紀・伝(文化三〜嘉永五刊)、『八州文藻』(弘化二成立)といった藩の編纂事業の延長であり、もう一つは天保・安政の藩政改革という政治状況を背景とした士民教化の必要性である。これら一見異質の両目的を見据えたため、『明倫歌集』編纂の方針は、その過程において「勅撰之体」と「子弟の教」になるべき体裁との間で揺れ続けなければならなかった。

本発表では、梶山孝夫氏が一部紹介された東北大学附属図書館所蔵『鶴峯戊申草稿』『同記録』の再検討に加え、国立国会図書館所蔵の西野宣明著『松宇日記』等の資料も用いて編纂の経緯、部立の変遷をより具体的に明らかにした上で、収録歌の選定基準・配列を検討し、幕末志士の言動から明治以降の国民教化にまで影響を及ぼすこの歌集の意義について考察する。


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10. 『冠辞考』の享受に関する一考察
  ― 本居宣長手沢本を中心に ―

富山大学(非)

奥野美友紀

宝暦七年に刊行された賀茂真淵の『冠辞考』は、多くの和学者たちに影響を与え、その後の和学研究に先んずる位置にある書として知られている。

現在、本居宣長記念館には宣長手沢本『冠辞考』が残されている。本書に見える枕詞は項目数にして三百二十九、手沢本ではその約半数の項目に書き入れが見える。書き入れの多くは『万葉集』『古事記』などからの用例を示すものだが、宣長自身の、また同時代の和学者による説も併せて記され、本居春庭・宮地春樹・本居大平・谷川士清・田中道麿といった宣長との交友が知られる人物のほか、建部綾足の名が見える。なかでも綾足の名は三十七ヶ所に登場して最も多く、宣長は『冠辞考』理解の補助線として綾足の説を参照していたらしいことがうかがえる。

例えば宣長は、『玉勝間』巻五で『旧本伊勢物語』について言及し、綾足に対し批判的な視線を向けている。一方、手沢本『冠辞考』において宣長が綾足説を参照していることについては、従来ほとんど取り上げられていない。

本発表では手沢本に書き入れられた綾足説と『古事記伝』に見える記述との関連を手がかりとして、『冠辞考』享受の一面について考察する。宣長にとっての綾足という観点から、二人の和学者を軸に、近世中期における和学享受の様相について考えたい。


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11. 近世金沢の出版

前田土佐守家資料館

竹松幸香

加賀藩における出版の中心地は金沢であり、民間の出版に関して言えば、名古屋、仙台、和歌山などの他の大藩の城下町と同時期(十七世紀末)に書肆が出現していることから、地方出版における先進地域の一つであったといえよう。金沢において、十七世紀末から出版が行われていたことは、これまでの研究でも明らかにされている。とりわけ、金沢で最も早い時期に登場し、京都の書肆との俳書の共同出版で注目された書肆三箇屋五郎兵衛について言及したものが散見される。しかしながら、三箇屋の活動は近世前期に限られており、近世後期の出版状況を含めた金沢の出版の全体像の解明には至っていない。

また、地方の出版事情についてまとめられた朝倉治彦・大和博之編『近世地方出版の研究』(東京堂出版、一九九四年)では、金沢の出版については、近世地方出版において重要であると指摘されながらも、取り上げられていない。

以上の問題点を解決する糸口として、まず、現物の出版物を参照しながら、金沢の書肆・出版物について再検討を行った。その上で、三都との関係を検討、他の地方との比較をしながら、地方出版の一事例として、金沢の出版の概要と特色について報告する。


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12. 元禄期加賀藩の学芸と今枝直方

日本学術振興会特別研究員

勝又基

元禄期を中心とした加賀藩では、五代藩主・前田綱紀の好学を受けて、有沢永貞・浅加久敬など、文事をもって仕えているのではない藩士が旺盛に文筆活動を行っている。こうした藩士たちの伝記を積み重ねる事で、加賀藩学芸の新たな一面を明らかにしたいと考えている。

その第一歩として今回は、元禄期に加賀藩で一万四千石を食んだ家老・今枝直方について報告したい。彼の著書・旧蔵書のほとんどは金沢市立玉川図書館近世資料館に蔵されていて、その概要を知る事ができる。それらによれば、著書は聞書・雑記・紀行文・在江戸日記など多彩かつ旺盛である。また、加賀藩が招いた連歌師・能順との交流や、夭折した息子・直温が整理した加賀藩関係の漢詩文集『難波詞林』(天理図書館蔵写本)を増補するなど、和漢にわたって広い興味を有していたと言えよう。

また、筆写による集書が多く、その識語からは書物を通じての交流が知られる。中でも江戸在府中に寛永寺凌雲院主・実観から多くの書物を借用している点は興味深い。 彼はいわば加賀藩藩士文芸の頂点にあり、好学の藩主綱紀と藩士らとを結ぶ重要な存在であったと考えている。彼についての調査はほとんどなされていないため、彼の伝記と、膨大かつ多彩な仕事に関する基礎調査を行い、これをもって元禄期加賀藩の学芸について考えるきっかけとしたい。


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13. 北野社宮仕(中)という歌学専門職集団の組織と運営の実態
  ― 小松へ流出した頭脳・能順「伝」の基底として ―

棚町知彌

四十余軒・八十人足らず(見習いを含む)、連歌を敬神の「家職」とする専門職集団の研修・団結の場としての「学堂」は、延宝・天和のころより幕末まで、連綿として続いた。「臈次」による、典型的な「年功序列」社会に窒息しそうで流出した二人の頭脳が「宵の明星」能順と「明けの明星」宗渕とである。慶安五年(菅原道真公七百五十年忌)と元禄十五年(同八百年忌)との両万句の原懐紙が北野社に現存し、その巻頭百韻には全宮仕が名を連ねている。この五十年間 ― それはそのまま、能順の北野社宮仕時代である ― 諸資料よりデータを拾い、全宮仕の戸籍(住民登録)化を先ず試みる。規則があって、組織される現代とちがって、個々のデータから規則を帰納する途をたどる。財務・経理の解明は、これの最も重要な裏付けである。

北野学堂について、北野宮仕について、筆者はすでに再度報告をまとめたが、それは能順あるいは連歌史のための考察であって、それの基底とすべき宮仕という集団の組織と運営の実態究明は、結局自分で試みる外ないと思い至った。古くは竹内秀雄氏による「天満宮」史諸研究に一部引用されているものの、『北野天満宮史料』には収められていない、東大史料編纂所蔵「光乗坊文書」六百点は、当研究を大きく補強することができる。この五十年間についての「宮仕中」の実態解明は、後水尾院より霊元院への、堂上歌壇の変化にも側面より光を投げるであろう。


(C)日本近世文学会