平成18年度秋季大会発表要旨

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1. 『通俗忠義水滸伝』翻訳者の問題
  ―『忠義水滸伝解』凡例と『忠義水滸伝』施訓者の再検討を通じて―

京都府立大学研修員

中村綾

近世に広く普及した『水滸伝』の翻訳『通俗忠義水滸伝』(以下『通俗』)には、その翻訳者や底本など未だ不明な点が多い。通俗は正編と拾遺に分けて刊行され、この翻訳者には、正編に冠山、拾遺に道人の名が記される。

近世に広く普及した『水滸伝』の翻訳『通俗忠義水滸伝』(以下『通俗』)には、その翻訳者や底本など未だ不明な点が多い。通俗は正編と拾遺に分けて刊行され、この翻訳者には、正編に冠山、拾遺に道人の名が記される。

通説は和刻本の施訓者が冠山であるという南涛の発言を前提にして初めて成り立つものであったが、『伝解』の凡例には不審が残る。『伝解』の凡例には、その底本に百二十回本を使用した旨が記されているが、『水滸伝』諸本と比較すると実際には使用されていないことが判明する。そのため、和刻本の施訓者についても、その発言の信憑性が問題となろう。

通俗の翻訳者については、かつて白話語彙の使用面から岡嶋冠山関与の可能性について言及したことがあるが、本発表では、通俗の底本の問題や、冠山生前に翻訳が完成していた可能性なども考慮しつつ、和刻本の施訓者や古義堂における水滸伝研究のあり方についての再検討を通じ『通俗』翻訳への冠山の関与のあり方を考察したい。


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2. 『松染情史秋七草』論 ― 虚と実 ―

関西大学(院)

中尾和昇

本発表では、〈史伝物〉形成期において〈巷談物〉と見なされていた曲亭馬琴作『松染情史秋七草』(文化六年刊)を取り上げる。前年作の〈巷談物〉『三七全伝南柯夢』と比較しながら、『椿説弓張月』後編で明示された「虚実相半」の視点に着目し、お染久松ものという虚と南朝史という実が如何に融合されているのかを考察する。そこでまずは馬琴の南朝史に対する認識、就中楠正儀の降参に関する認識を利用典拠の取捨選択から確認する。そして、本作が南朝の世界から一旦はお染久松の世界へ移り、再び南朝の世界へ回帰する構造で成り立っていることに注目し、それぞれの転換点を@千剣破城の陥落、A楠正元の足利義満襲撃、B楠正元の首をめぐる攻防、C回避されたお染久松の情死の四点に絞って検討する。以上を整理すると、本作はお染久松の物語と南朝の歴史が互いに精妙かつ有機的に絡み合いながら、南朝の遺臣たちの忠義を主たる骨格として創り上げられた独自の南朝史であることが窺える。すなわち、本作で馬琴は楠氏の外伝たる〈史伝物〉を目指したのである。ただ結果としては、お染久松ものを利用することで、〈巷談物〉の色彩が濃くなったものの、『三七全伝南柯夢』で確立した〈巷談物〉から『椿説弓張月』後編で確立した〈史伝物〉へと飛躍する過渡期的作品として、馬琴の読本著述に新たな拡がりや厚みを見出せるとの結論に至る。


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3. 馬琴の「水滸三等観」の形成

九州大学(院)

菱岡憲司

「水滸伝」の百八賊に「初善中悪後忠の三等」を読み取る、所謂「水滸三等観」は、馬琴が最終的にたどり着いた「水滸伝」観として知られる。今回、馬琴の創作活動、特に読本の執筆が「水滸三等観」の成立に如何なる影響を与えているのかを検討し、馬琴創作の理論と実践を明らかにしたい。

馬琴は読本において、悪人、あるいは悪人であったと思われた人物が善心に立ち戻る「もどり」の趣向を多用した。それは読本執筆の最初期、享和四年刊の『小説比翼文』に早くも見受けられ、その後の読本にも必ずと言ってよいほど用いられる。「文化年中までは、己も雑劇に倣ひて手負人の長物語を書た」(「稗説虎之巻」)と記す如く、馬琴は明確な意図を持って「もどり」を描いている。

この趣向は、人は皆「本然の善」を有する、という朱子学的な性善説に基づいている。前世の因縁等、外因的な理由で悪行を行った人物に「本然の善」を付与し、最終的に善心に立ち戻らせるという悪人造型を、馬琴は類型化して描く。そして馬琴の「水滸三等観」とは、「彼等が心操に本然の善あるは、作者の真面目」(『犬夷評判記』)とあるように、宋江等に「本然の善」を見出すことが発想の基となっている。すなわち、馬琴が読本で繰り返し描いた「もどり」こそ、「水滸三等観」を「発明」する礎になったのではないか。このことを実作品に表れた形象を読み取りつつ論じたい。


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4. 豪商大橋淡雅における文事と時局

東京大学(院)

佐藤温

幕末期に強硬な攘夷論を主張し、坂下門事件の首謀者たる勤王志士として知られる江戸の儒家大橋訥庵は、天保十二年(二十六歳)に江戸日本橋の豪商大橋(菊池)淡雅の元に娘婿として迎えられる。この養子関係が訥庵のその後の資金的な後ろ楯となったことは従来漠然と指摘されているが、養父淡雅が訥庵を文化的な環境へと導いた点については未だ注目されていない。

本発表では、商業の傍ら書と書画鑑定をもって知られ、文人会合を盛り立てる文化人でもあった淡雅の事跡を、後裔である宇都宮市菊池家所蔵の未公開資料を中心に明らかにしていきたい。菊池家に伝えられる淡雅の遺稿集には、淡雅が渡辺崋山・立原杏所・高久靄pといった画人や書画商安西雲煙らを中心としたサークルの中で、書画の展観会と借観を盛んに行っていた様子が描かれている。更にこうした場における鑑定行為が、公儀に対する古筆鑑定を家職とした古筆家から特権領域の侵犯として訴訟を起こされる程に本格的な様相を呈していたことも、菊池家に伝存する記録「安西雲煙・古筆了伴鑑定一件始末」(写本一冊)を通して紹介する。そして、このサークルが渡辺崋山幽囚時には解放運動の主体となったことを取り上げ、当時の文人会合が持ちえた時局との接点についても考察する。

最後に、こうして淡雅によって培われた人的・物的な環境が、後に娘婿訥庵と淡雅の嗣子菊池教中の勤王活動に裨益した可能性について指摘したい。


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5. 奥の細道松島条校訂私案

天理大学(非)

井口洋

「抑、ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして」、―『奥の細道』西村本の、ここの「ことふりにたれど」はもと、天理本〔曾良本〕において、「抑松嶋は」の「抑」と「松嶋は」との間に、墨で「事ふりにたれと」と書き加えられたものであった。では、誰がどういう意図で、これを天理本に書き入れたのか。従来の研究は、これを書き入れた者を芭蕉その人として疑わなかった。

しかし、平成十五年刊、堀切実氏編『『おくのほそ道』解釈事典』によれば、天理本の墨の書入れについては、現在は、それを書き入れた者を芭蕉と見るか素龍と見るか、二つの対立する立場が存在するという。が、とすると対立点は結局、筆蹟の帰属に収斂されそうに見えるが、問題は筆蹟の主よりも、結果が作者の意図した本文であったのかどうかというところにあるはずではないか。

天理本における墨の書入れは現に、すべてを芭蕉の所為とすると説明に難渋することが、これまでにもしばしば生じている。といって例外を設けることは、筆蹟にもとづくかぎり矛盾を来すであろう。ならばいっそのこと、それは芭蕉による「推敲」ではなくて、芭蕉以外の誰かによる「添削」ではないか、疑ってみてはどうかと私は考えてきた。芭蕉の作としては俳文を含めても、『奥の細道』天理本墨の書入れ以降と許六編『本朝文選』所収「松島ノ賦」にしか存しない「事ふりにたれど」についても、私はそれを疑う。


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6. 京都経師の出版活動

龍谷大学(院)

万波寿子

これまで「経師」は職名であり、彼らは寺院や書肆などが出版を行うときの印刷や表装を手がける職人であると考えられてきた。また元来経師でかつ出版活動したと考えられる経師や経師屋の屋号を持つ書肆たちについては、一般的な書肆の活動と大きな差違はないと見なされてきたように思う。しかし京都の経師の活動を見ていくと、それなりに独自性を持つ出版活動をしていた事が、刊記や本屋仲間記録などから窺われる。

本発表では、これら京都の経師の活動の一端を明らかにしたい。まず京都の地誌を初めとする各種資料から、大経師(経師の長老で毎年暦の刊行に携わった)をはじめとして経師の多くは烏丸通を中心に住んでいた事もあり、集団で大経師暦の刊行という継続的な仕事を担っていた事を確認する。次に本屋仲間記録などに見出される『浄土三部経』の出版をめぐるおびただしい数の出版訴訟の分析を軸に、経師屋伊兵衛、丁子屋卯兵衛、大和屋藤兵衛ら経師が、いかに根強く経典の版権を主張していたかを見ていく。その中で、彼らが町版の経典について、書肆としてではなく「経師」という立場で出版を行っていたことを明らかにする。さらに、『三部経』の読曲や刊記などを整理する中で、経師が板株を持つ経典が、寺版や町版の経典とどのように関係するのかについても言及したい。


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7. 吉野屋為八の出版活動

お茶の水女子大学(院)

藤川玲満

吉野屋為八は、秋里籬島の『都名所図会』を出版した京都の書肆として著名であるが、名所図会以外の出版をはじめ実際の吉野屋に関しては、これまでに詳細な追及がなされていない。吉野屋の出版活動の解明は、秋里籬島や名所図会の研究の進展を促すだけでなく、近世中期に創業した京都の本屋の在り方を究明する点でも意味があろう。本発表では、板本や出版記録の調査結果をもとに吉野屋の出版活動を概観し、特徴や動向を報告する。

吉野屋の活動の時期については、従来、安永九年刊『都名所図会』の企画より出版業を始めたとされていたが、この板行以前に手がけた出版物のあることが明らかになり、安永四年刊『浄土安心説法問答』『真宗現益辨惑論』から文化八年刊『三都の画咄』の後印まで、相板や求板刊行も含め、五十点あまりの板行に携わったことが確かめられる。出版物の種類は、名所図会と名所関連の地誌や秋里籬島の著作のほかに、仏教書、女用物、俳諧書、絵本・画譜、書蹟、漢籍などであり、営業場所は、油小路七条上ル、寺町五条上ル、御幸町五条上ル、寺町姉小路上ルと動いている。このほかに周辺の書肆との関連として、吉野屋の蔵板した名所記のうちの複数が、もとは萬葉堂(陰山三郎兵衛等)の蔵板であったことや、吉野屋から蔵板の多くが渡った河内屋太助は、はじめは名所図会の売捌元として関与したと考えられることなどを述べる。


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8. 鱗形屋板初期草双紙絵外題考

実践女子大学文芸資料研究所(非)

松原哲子

初期草双紙でまず問題になるのはその刊年である。これを決定する際に最も重視しなければならないのは題簽の様式である。草双紙の絵外題と刊年の関係については東洋文庫岩崎文庫蔵『青本絵外題集』の編集方針を見てもわかるように、古くから注目されている。初期草双紙研究の基礎ともいうべき木村八重子氏の『赤本黒本青本版心索引(予備版)』(『書誌学月報 別冊』)は現存の題簽の現状を示し、多くの作品について原題簽の有無の確認や刊年の類推が可能となっている。

本発表では鱗形屋板の初期草双紙の題簽、特に様式が一枚から二枚へと移行する時期について考察を加えたい。その方法としては、新板目録や画作者の活動時期などの情報から、現存する鱗形屋板の題簽を整理し、年代順に追うこととした。結果、鱗形屋板の題簽は宝暦期に一枚から二枚、安永期に二枚から一枚へと様式を変更していたであろうことが確認され、その傾向に照合すると、従来明和六年(一七六九)のものとされる新板目録(「うしの正月新板目録」)は、題簽の様式から延享二年(一七四五)とした方が妥当であることが明らかとなった。

また、黒色表紙と黄色表紙の前後関係、干支の意匠を伴わない題簽を有する作品の刊年特定など、初期草双紙を研究する上での基本的な問題について、現存の原題簽を精査することによって補えることを鱗形屋板を例に挙げて示してみたい。


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9. 甫庵『信長記』初刊年再考

中京大学

柳沢昌紀

小瀬甫庵著『信長記』の初版については、慶長九年(一六〇四)説、同十六年説、元和八年(一六二二)説がある。このうち、川瀬一馬氏の唱えた元和八年説が、松田修氏、笹川祥生氏、位田絵美氏らの賛同を得て、現在ほぼ定説化している。

ところが、無刊記の古活字版である早稲田大学中央図書館蔵本には「小瀬甫庵道喜/慶長十七年五月吉日/奉納 白山□□□□」という奥書がある。「奉納」以下は墨消しされていて、残念ながら判読しづらい。『増補古活字版之研究』に従えば、『信長記』古活字版には片仮名本が六種、平仮名本が一種存在し、早大本は片仮名第六種本に該当する。川瀬氏は第六種本を、元和寛永中刊とした。しかし、第六種本には、同氏や阿部隆一氏が慶長年間刊とする甫庵刊行書『政要抄』や『明意宝鑑』と同じ活字が使われている。また笹川氏は、『信長記』寛永元年(一六二四)整版の跋(位田氏は甫庵自筆版下と推定)に「元和八年刊本が不満足な出来であったから修正したとあり、慶長版には触れない」ことを理由に元和八年説を支持した。だが、寛永元年版には「元和八年仲冬或鏤梓」とあり、元和八年古活字版の刊記の「三月吉辰」と一致しない上に、そもそもこれは跋でなく、版元杉田良庵の刊語と推定できるのである。

以上により、元和八年説の論拠は失われる。『信長記』は林羅山の序文が記された慶長十六年か、翌十七年に刊行され、それは恐らく片仮名第六種本であったと考えられよう。


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10. 実録と絵本読本
  ― 速水春暁斎もの「実録種」絵本読本を例に ―

学習院大学(非)

菊池庸介

絵本もの、あるいは絵本読本と呼ばれる一群の多作者、速水春暁斎が手がけた絵本読本作品を通覧すると、写本の実録を種本にしたと目されるものが少なからず存在する。そのうちの何点かは基本的な種本が指摘されているが(『絵本忠臣蔵』における『赤穂精義内侍所』『赤城義臣伝』等)、多くはいまだ明確にし得ないでいる。そこで本発表では春暁斎もの「実録種」絵本読本のうち、種本が特定できたものの報告をし、実録を絵本読本化するときの方法を考えてみたい。種本はたとえば『絵本孝感伝』には『敵討嫁威谷伝』を、『絵本夜船譚』には『敵討英婦伝』をそれぞれ指摘できる。これら『敵討嫁威谷伝』や『敵討英婦伝』、先述の『赤穂精義内侍所』などの春暁斎もの絵本読本の種本となった実録は、比較的よく流布していたと考えられる。

実録の絵本読本化の方法は、単に実録に絵を付すだけでなく新たな挿話や人物が加わるなどストーリーにも手が入り、中には物語の展開に大きく影響を及ぼすものもある。また、実録のストーリー構成は事件の時間軸に沿いつつそれぞれの場面に関するトピックを連結する傾向であるのに対し、絵本読本は実録のストーリーを並べ替え、事項ごとに整理する傾向がみられる。

これら実録の絵本読本化の方法は、筋が散漫になりかねない実録に比べ、小説作品としてストーリー構成をより意識したものと考えられ、それは絵本読本の本質の一つに通じるのではないかと予想される。


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11. 文化三、四年の京伝・馬琴と『桜姫全伝曙草紙』

国文学研究資料館

大高洋司

文化三、四年(一八〇六〜七)に刊行された曲亭馬琴の読本には、山東京伝『桜姫全伝曙草紙』(文化二・一二)と共通・類似する素材・趣向の頻出が容易に見て取れる。さらには、『曙草紙』で作品の主題とされた〈嫉妬を中心とする女性の悪〉が、馬琴読本においても、様々な局面で多用されている。

この点について、早く山口剛氏に、馬琴『石言遺響』(文化二・一)で、主人公側に敵対する悪女の形象が、京伝『桜姫全伝曙草紙』に引き継がれる(名著全集『読本集』解説)ことのご指摘がある。発表者は、以前これを追認した(拙稿「『優曇華物語』と『曙草紙』の間―京伝と馬琴―」、一九八八・六)際、両者間の並々でない影響関係を再確認しながら、結論としては、馬琴が京伝に先んじたことを強調するに止まったが、近年になって、『曙草紙』を中心に、文化四年以前刊行の読本諸作に見られる上記の傾向は、競合というよりも、むしろ京伝・馬琴がいわば兄弟作者であることの結果と考えるに至った(拙稿「『四天王剿盗異録』と『善知安方忠義伝』」、二〇〇四・二 等)。

愚見を視点として文化三、四年の京伝・馬琴読本を眺めた時、『曙草紙』は、それらの基調をなす作品であると考えられ、文芸的にも、きわめて高いレヴェルに到達している。あえて言えば、『曙草紙』は、京伝のみならず馬琴においても、『忠臣水滸伝』以来目指してきた〈稗史もの〉読本の、最初の達成と認識されていたように思われる。


(C)日本近世文学会